翌朝、女中は坪井医学士の許へ便を届けた。午後診察に来るとの由だった。
 順造は食事を済し、子供に牛乳をやり、それから庭に出て、狭い地面を歩き廻った。霧を通して射す朝日の光が快かった。植込の下枝の枯れたのを、ぽきりぽきりと折り取ってやった。
 十一時頃、坪井医学士が不意に来診してきた。順造はどきりとした。医学士は腹部の診察だけをした。
「結核性腹膜炎です。」
 思いもつかない病名に、順造はただ医学士の顔を見守った。医学士は煙草に火をつけて、病人の顔を暫く見守った。
「出来るだけ動かないようにしなければいけませんね。」
 それから、病院にはいってはどうかと勧めた。子供のためには乳母の必要があると命じた。不完全な牛乳は最も危険だそうだった。
 乳母の方は、ありさえすれば問題ではなかった。入院の方は秋子がどうしても承知しなかった。
「私子供の側で死にたいから。」と彼女は云った。
「死ぬの生きるのというほどのことではありません。入院して早く癒った方がよくはありませんか。」
 それでも秋子は承知しなかった。順造の顔を懇願の眼付でじっと眺めた。
 順造は決心した。家でやることにきめた。看護婦を傭う事は医学士が引受けてくれた。
 順造は乳母が来るまで二人ほしいと頼んだ。
「大丈夫だから、安心しておいで。」
 秋子が強く首肯いたので彼は嬉しかった。彼はすぐに桂庵へ行った。赤茶けた髪の婆さんが出て来た。頭から足先までじろじろ見られるので、可なり不快な気がしたが、それを我慢して乳母を頼んだ。
「宜しゅうございます。心当りが一人ありますから、聞き合せてみましょう。少し月が違いますけれど、牛乳よりはどんなにましだか分りませんよ。牛乳をおやりなさると……。」
 牛乳と母乳との講釈が出そうになったので、順造は至急に頼むと云い捨てて飛び出した。
 空が拭ったように晴れて、日の光が冴え冴えしていた。そのぱっ[#「ぱっ」に傍点]とした外光の中で、彼は突然云い知れぬ不安を感じた。駆けるようにして帰ってきた。
 午後、産婆が見舞ってくれた。結核性腹膜炎と聞いて眉を顰めた。順造は危険な病気であることを直覚した。
 夕方、看護婦が二人やって来た。
 秋子はまた激しい腹痛を訴えていた。食物を与えるとすぐに吐いた。日の暮れ方に、坪井医学士が見舞ってくれた。注射が行われた。暫くすると腹痛が止んだ。けれど秋子はぼんや
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