った。廊下に出てみたが、急にぞっと身震いがして、また室の中にはいった。どうしていいか分らないで、室の中を歩き出した。真中にある机を足先ではねのけて、八畳の室の隅から隅へ対角線を、しきりなしに往き来した。隅でぐるりと一廻転するのが、初めは何だか変だったが、次にはそれが一のリズムとなった。とんと一つ調子を取るようにぐるりと廻って、それから真直に平らな歩調となり、向うの隅でまたとんと調子を取った。彼方の室全体の恐ろしい唸りが、それと呼吸を合してきた。
生れるのかしら!
何だかこう得体の知れない真黒な力だった。それがのた打ち廻って、張り切って、裂けて、ぶつりと切れた途端に、猫の仔とも犬の仔ともつかない小ちゃな、ころころとした啼声が、一つ甲高に響いた。次にまた少し低く三四声響いた。それから、くちゃくちゃな静けさになった。
初めの啼声に立ち竦んでいた順造は、はっとして飛び上った。廊下に出て向うへ行こうとすると、廊下の茫とした薄ら明りが、こちらを見守ってる死人の眼のように感ぜられた。彼はまた室にはいって襖を閉め切った。胸が高く動悸していた。
ざわざわしたどよめきが、彼方の室に起っていた。暫くして、先刻と同じ啼声が今度は落着いた調子で響いてきた。それから後は、頭の加減それとも実際にか、めいるような静けさになった。
彼はぼんやり其処に腰を下した。頭の働きがぴたりと止って、不思議なほど何にも考えられなかった。
「旦那様、旦那様!」強い調子で向うから呼んでる女中の声に、彼は初めて我に返った。
「お生れなさいました!」
髪を乱してる女中の赤い顔が、廊下の入口から一寸覗いてすぐに消えた。
彼は機械的に立ち上った。非常に勇気がいるような気がして自ら自分を励ましながら、半ば捨鉢に秋子の室へはいって行った。消毒薬の匂い[#「匂い」は底本では「幻い」]がぷんと鼻にきた。散らかった室の中の有様が一度に眼へ飛び込んできて、何にもはっきり見て取れなかった。両の拳を握りしめたまま、秋子の枕頭と思われるあたりに坐った。
「お目出度うございます。お坊ちゃまでございますよ。」
彼は声のする方へ頭を下げた。それを挙げようとする時、すぐ前の秋子の顔とぶつかった。口許に力無い薄ら笑いを湛えて、眼は[#「眼は」は底本では「眠は」]涙ぐんでいた。
「ごらんなさいませ。」と産婆は云い続けていた。「まるまる肥っ
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