として、彼女は縋るように微笑みかけてきた。順造はその腹部から眼を外らして、彼女の手を握りしめてやった。
「しっかりおしよ。お前さえしっかりしていてくれれば……。」
 ……他のことはどうでもいい、という言葉が喉につかえた。果して他のことはどうでもいいかどうか、彼は我ながら分らなかった。大きな力が上から押被さってきて、胸がわくわくしていた。
 松の小枝の影が障子の棧を二つ進んで、も一つ他の枝影が出て来た頃、産婆が助手を連れてやって来た。肥った円顔の上に小さな束髪をつけ、大きな黒革の鞄を手にしてる様子が、変に道化じみていた。然しその言葉はしっかりしていた。
「まだ暫く間がございますよ。夜中過ぎか明朝になるかも知れません。私がついていますから、御安心なさいませ。案ずるより産むが易いって、全くでございますよ。」
 けれど、電灯がともる頃になると、陣痛は可なり頻繁にまた激しくなってきた。順造は大急ぎで食事を済して、秋子の室を一寸覗いた。彼女は頭をぐったり枕に押しあてて、涙ぐんだ眼を異様に輝かしていた。彼はその眼から、自分と自分を引きもぎるようにして、鈎の手の廊下で半ば離室《はなれ》になってる自分の室へ退いた。
 もしかすると、秋子は死ぬんじゃないかしら?
 ふと頭を掠めた考えが、次の瞬間には、すーっと何処かへ消し飛んで、ひっそりとなった。彼は畳の上に寝転んだ。起き上って机に向ってみた。平素愛読してるフランス革命史[#「フランス革命史」に傍点]を、無理に六七頁読み進んでみたが、更に興が乗らなかった。それからまた寝転んだ。耳を澄しても何も聞えなかった。次第に頼り無い気持になった。長い時間がたった。
 彼は突然、じっとして居られない衝動に駆られた。かすかな音が何処からともなく伝わってきた。よく耳を傾けると、唸り声とも叫び声とも息の音ともつかない、何か大きな声が一塊になってる響だった。それが暫く間を置いて、地の下からのように底深く伝わってきた。そして時々、気合の声か掛声みたいなものが、その深い響に釘を打込んでいった。
 初まったな!
 そう思うと、がーんと耳鳴りがした。それから一寸ひっそりとなったが、今度は廊下の彼方の秋子の室全体が、麦酒瓶に息を吹込むように、うーッ、うーッ……と唸り出した。それが間を置いては、次から次へと高まっていった。耳にではなく、胸に伝わる響だった。
 彼は立ち上
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