の早い小鳥のような彼女は消え失せて、大きな腹でどっしりと落着いて上目がちにあたりを見廻す彼女となっていた。
 日に日に可愛い秋子が何物かに奪われてゆくのを、順造はどうすることも出来なかった。而も彼女を奪ってゆくその偶像は、固より胎児ではあったけれども、単にそればかりではなく、何だか陰惨な得体の知れない大きな力だった。見つめていると、眼が眩むような気がした。
 誰を――何を――愛していいか、彼には分らなかった。
 秋子がぼんやり立ってると、彼はそっと忍び寄って、彼女の両膝を後ろから押してがくりとさした。坐ってる横を彼女が通りかかると、ひょいと片足を投げ出して邪魔をした。一緒に次の室へ歩いてゆく時には、軽く彼女に足払いをかけてみた。そんな一寸したことにも、彼女はよく転んだ。そしては怒って、彼の悪戯を責め立ててきた。彼はそれを胸に抱きしめてやりたかった。然し彼女は彼の拡げた腕に飛び込んで来なかった。いつまでも顔を脹らしていた。それが、臨月近くなると、後で眼を濡ましてることがあった。
 早く日の光を、自分達に……ではない、秋子の胎内のものに与えることだ! と順造は考えた。

     二

 秋子は、予定よりも三週間ばかり早く産気を催した。
 その朝彼女は、今日一日会社を休んでくれないかと順造に頼んだ。[#「順造に頼んだ。」は底本では「順造に頼んだ」]前晩から様子が変だった。それでもなお半信半疑でいた。順造に留守を頼んで、女中を連れて銭湯に行った。帰って来て、それから昼食を済すと、本当に陣痛が襲ってきた。女中が産婆の許へ走った。
 弱い中に鋭さを含んだ初秋の陽が、障子の下半分にぱっと射していた。秋子は布団の上に坐り、膝にのせた括枕《くくりまくら》によりかかって、障子の日向に写ってる松の小枝の影を、ぼんやり[#「ぼんやり」は底本では「ほんやり」]見つめていた。
「どうだい様子は?」
 順造は十分おきくらいにくり返し尋ねた[#「尋ねた」は底本では「尋たね」]。その度毎に彼女はふり向いて、疑惑を含んだ眼付で見返した。何も云うことがなかった。沈黙のうちに、時々その大きな腹が波打って、彼女は肩のあたりをねじ曲げながら、眉根をしかめ歯を喰いしばった。心持ち引歪めた唇の間から、真白な小さい歯並が覗いていた。
「寝たらどうだい?」
「この方が何だか楽のようですから。」
 痛みが去って、ほっ
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