言るのよ。どんなに心配して大事にしてるか知れませんよ。一寸したことでも、どう障るか分らないんですから。指が二本くっついてたり、耳が縮れたりすることは、よく世間にあるじゃありませんか。」
「なあんだ、つまらない。」
「何がつまらなくって?」と彼女は意気込んだ。
 彼はどう説明していいか分らなかった。が兎に角、彼女の心配は明るい浅い、形のはっきりしたものだった。然し彼のは、暗い深い漠然としたものだった。底のない不気味さ、そんな感じが胎児という考えを色づけていた。
 秋子は急に苛立ってきた。黙ってる彼の顔へ、尖《とが》った声の調子を投げつけた。
「あなたは私が姙娠したのを御不満なんでしょう。そうに違いないわ。一度だって喜んで下すったことがあって?」
「馬鹿な邪推をするもんじゃない。」
 彼女は邪推でないと云い張った。そんな考え方をするのはいけない傾向だと彼は云った。あなたの方がいけない傾向だと彼女は云った。そう思うのは誤解してるからだと彼は云った。
「誤解ですって?」と彼女は声の調子を高めた。「それじゃ、どうしてそんなに私のお腹を気になさるの。思い切ってお叩きなさるがいいわ。今にどんなことになるか分るから。」
 捨鉢に腹をつき出してる醜い彼女の姿から、彼は憫然と眼を外らした。室の隅には、赤ん坊の小さな着物が、縫いかけのまま放り出されていた。その可愛いい赤い色から、彼はぴしゃりと頬辺を殴られた気がした。淋しかった。冷たくなった心のやり場に迷って、秋の[#「秋の」はママ]方へ屈み込んだ。
「僕が悪かったよ。もういいじゃないか。」
 彼女は啜り泣いていた、と思ったのは誤りで、肩で息を喘いでるのだった。その肩に彼の手が触ると、彼女はつんと身を反らせた。
「構わないで下さい!」
 彼が何と云っても、彼女の機嫌は直らなかった。機嫌が直ると、上から見下したような調子でくり返した。
「あなたは父親になる資格はありません。」
 彼は何とも返辞をしなかった。それに構わず彼女は、またぼんやりと考え込んだ。
 偶像を抱いてるのだ!
 偶像崇拝者の排他的な執拗さが、彼女の態度のうちに現われていた。凡ての仕事を打捨てて、ただ胎児のことばかりに専心していた。散歩の帰りに彼の袂に縋ることがあっても、それは昔のような心からではなく、転んで胎内に激動を与えないためであることを、彼ははっきり感じた。背の低い足
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