いんですか、と彼女はよく云ったけれど、上っ調子のその言葉は、攻撃的なだけで根深くはなかった。それが今は、腹の底から彼に対抗しようとしていた。
「お前こそ僕が邪魔なんだろう。」と心にもない言葉が彼の口から出た。
 その後では、何も云うことがなくなって黙り込んだ。
 姙娠した女を相手に喧嘩するものじゃない!
 苦々しかった。二人きりの時は、どんなに激しくいきり立っても、底をわってみれば夫婦間の冗談にすぎなかった。所がそれに胎児という変なものが加わると、二人の心は笑うにしても怒るにしても、同じ一つの火に燃えなくなった。彼女はもはや彼を対手にしてはいなかった。
 七ヶ月、八ヶ月……となると、腹が目立って大きくなった。彼女は前年の新婚当時のように、暑い盛りを海岸へ行こうとも云わないで、額には汗をにじませながら、両袖で腹部を蔽って、室の真中に泰然と坐っていた。ただ一つの要求は女中を傭うことだった。その女中が漸く一人見付かると、家の中の用を殆んど凡て任せっきりにして、自分は赤ん坊の着物などを、ぽつりぽつりと縫い初めた。針を手にしたまま、何かをぼんやり思い耽ってることが多かった。
 順造はその後ろへ忍び足で近寄っていった。両膝の先を開き加減にして、臀をどっしりと畳に据えながら、大きな腹をつき出し、痩せた薄っぺらな胸と肩とで息をしてる、その様子が可笑しかった。
「何を考えてるんだい?」
 彼は笑いかけていたが、握り向いた彼女の没表情な眼を見ると、その笑いを顔に出すことも引込めることも出来ないで、中途半端な渋め顔をした。
「時々腹に瘤が出来るんですよ。赤ん坊が手か足かを伸してるのじゃないでしょうかしら。こんなに固くなって……。」
 乳首が黒くなって、顔が蒼白く色褪せていた。
「見せてごらん。」
 はだけた胸から手を差込んでみたが、彼には何にも感ぜられなかった。大きな山の裾野を思わせるような腹部が、押してもびくともしないほどの根強さで頑張っていた。
「まるで鉄の扉みたいだね。僕がノックしてみよう。中で返事をするかも知れない。」
 冗談のつもりだったのが、云ってしまってから真剣な怪しい気持になった。拒む彼女の手を押のけて、とんとんと叩いてみた。
「いけませんよ。もし不具《かたわ》の児でも生れたら責任を持って下すって?」
「お前でも、どんな児が生れるか心配になることがあるのかい。」
「何を仰
前へ 次へ
全45ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング