な時間だった。
そこへ、姉がこちらを何やら呼びかけながら、向うの松影から駆けてきた。
彼は初めて、俊子の眼をじっと見入った。それに応えて彼女の眼付が首肯《うなず》いた。瞬間に彼女はくるりと向き直って姉を迎えた。
岸に近い波音を、月の光りが上から押っ被せていた。が、海は沖の方でも鳴っていた。
九
東京に帰ると、海岸よりむし暑くはあったが、それでも秋がしみじみと感ぜられた。避暑地気分がなくなったせいばかりではなく、朝は冷かな霧が罩め、晩には凡てのものがしんと冴えていた。姉弟と女中と三人住みの小さな家にはわりに広すぎる庭に、しきりに鳴いている虫の声が、金属性の震えを帯びていた。
それが彼には妙に淋しかった。
が、そればかりではなく、実際不思議な淋しさだった。
帰京の日は、旅の慌しさに何にも感じなかったけれど、翌日から、海鳴の音が時折耳にはっきり蘇ってきた。おかしいなと思うと、冴え返った月が見えてきた。月ならば東京にも輝ってると思い返したが、それがまた変にぎらぎらと生々しい月で、その下に広い砂浜がうち開けて、誰かが向うを向いてじっと佇んでいる。俊子だ……と気がつくと
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