は姉の方を向いた、「私の方が漁夫の生活によっぽどよく触れてるわけじゃなくって。」
「駄目よ、あなたのはみんな空想だから。」
「そうかしら。」
 振り返ると、海は波頭に朝日の光りを受けて、沖遠くぎらぎら輝いていた。その輝きが無くなる頃から、海鳴の音が更に高まってくるのだった。

     四

 俊子の所謂海の霊を、彼女が最もよく感ずるらしいのは、夕方から夜にかけてであった。
 彼等が借りてる別荘とも百姓家ともつかない家は、その部落と松林との境に在った。
「早く御飯にして散歩に参りましょう。」
 明るいうちに夕食をして、大儀だからという伯母と女中とを残して、若い者だけで散歩に出た。
 松林の裾を廻って、薩摩芋の畑の間を少し辿ると、川の岸に出る。橋を渡った向うが低い堤防をなしていて、その向うに青々とした水田が、はるか海岸の砂丘まで連る。
 華かな残照が西の空に残っていた。海を渡り稲田の上を渡ってくる風が、昼間の暑気を吹き払って、遠い夕靄のうちに流れ迄んで[#「流れ迄んで」はママ]ゆく。その風の反対に、所々に川柳の茂みを持った堤防を海の方へ、三人は楽しげに語りながら下っていった。ゆるやかな川の面に落ちていた三つの淡い長影が、茫と水の色に融かし込まれる頃になると、話はいつのまにか途絶えていた。姉は歌を歌い出した。俊子がそれに和した。ダニューブ河の歌やローレライの歌がくり返された。古臭い歌だなと思っていた彼も、いつしかその調子を覚えてしまった。ただ口に出しては歌わなかった。
 海岸へ出る頃には、黄昏《たそがれ》の明るみが月の光りに代りかけていた。茫と青白く光る海岸線が、魔物のような波音をのせて遠く続いていた。
「いつまでも歩きたいような晩ね。」
「ええ……でも、沖の方を見ると何だか恐いようね。」
 薄ら明りに変に大きく見える手を伸べて、姉がさし示した沖合は、ただ一面の黒に塗られて、淡く射す月の光りと波音とを、底知れぬ深みへ吸い取っているようだった。
「だけど、沖に出てみると案外恐ろしくないかも知れないわ。丁度、墓地は外から見ると恐いけれど、中にはいると何となく賑やかだというじゃないの。海も墓地と同じようなものじゃないかしら。」
「そんなら私なお恐いわ。幽霊船でも出て来たら、あなたどうして?」
「そうね……。」
 暗い海を背景にして仄白く浮出している俊子の顔が、一寸揺れたかと思うと、低いおどけた声で、
「ばアーと云ってやるわ。」
 それが変に不気味だった。
「いやな人!」
 投げ出すように云った姉の言葉のすぐ後を、彼は横合から続けた。
「この沖にも幽霊船が出ることがあるんですって。」
「嘘!」と云った姉の声は少し慴えていた。
「嘘ではありません。船の姿が見えないのに櫓の音が聞えたり、真黒な帆前船がすーっと側を滑りぬけたりすることが、よくあるんだそうです。」
「それは、風の工合で遠い櫓の音が聞えたり、本当の船をそんな風に感じたりするんだわ。」
「所が変なんです。或る時沖に釣に出た船が、夜になって戻って来たことがあるんです。その漁夫達の話ですが、薄暗くなって帰りかけると、いくら櫓を押しても船がなかなか進まなかったんですって。それでも一生懸命に漕いでると、不思議なことには、一町ばかり離れた後ろの方から、やはりせっせと漕いでくる船があるんです。櫓の音も掛声もしないのに、船の姿や人の影だけがありありと見えていて、その上、近寄りもしなければ遠ざかりもしないで、いつも同じ速《はや》さでついて来ます。少し気味悪くなってきたので、漁夫達は力のあらん限り漕ぎまくって、漸う岸まで戻ってきて、ほっと後ろを振り返ると、今まで同じ速さでついてきていたその船が、何処へ行ったか消え失せてしまってるんです。その時はほんとにぞーっとしたと云っていました。」
 まあーと云ったように、姉は眼をきょとんとさし口を開いて、彼の顔を見守った。
「そんなこともありそうですわ。」と俊子は静かな声で云う、「海には一つの霊がないとしても、何かのいろんな霊が籠ってるに違いないわ。」
 波の音がその声を、上からどーっと押っ被せてしまった。が、その波音の中にまた何か変な気配がした。上を仰いで見ると、一羽の黒い鳥が低く飛び過ぎた。
 彼はぎょっとした。思わず俊子の方へ身を寄せると、俊子は眼と口元とで軽く微笑んでみせた。その顔が怪しく美しかった。彼は胸の中でぎくりとした。度を失ってまごついてると、俊子は瞬間に眼を外らして、腕につかまってきた姉の方へ云っていた。
「臆病な方ね。鳥じゃないの。」
「だって、私何かと思ったわ。生きたものならちっとも恐かないけれど、怪しい変なものは大嫌い。」
「私はまた、お化《ばけ》ならちっとも恐かないけれど、人間が一番恐いわ、何をされるか分らないから。」
 月の光りが急に明
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