が快《こころよ》く温まっていた。
 海の岸まで行って、其処に身を投げ出した。
 一色の青のうちに平らに見える海が、一町ばかりの沖の方から大きな波に高まって、やがて白い波頭をふり立てながらざざざざと寄せてくるかと思うまに、頂辺《てっぺん》からどっと崩れて捲き返した。それが無数に連って、松林と砂丘との真直な九十九里ヶ浜を、眼の届く限り遠くまで……末は茫とした水煙のうちに霞んでいた。耳を澄すと、ごーという地響きに似た音だった。その合間に、ごく近くに、さらさらと軽やかな音とも云えない音がする。風に吹かれた金砂が、日の光りに粉のように輝いて、浜辺を一面に走っているのであった。濡れた海水着が、いつのまにかそれを一杯浴びていた。
「そんな強い風でもないのに、ひどい砂ね。」
 独語《ひとりご》った姉の言葉に、俊子は沖の方を見ながら答えた。
「だって可なり強いんでしょう、あんなに波が立ってるから。」
「それは外海の波ですもの、風がなくても高いわよ。」
 だが、一処、妙に波が低くて白く捲き返さない場所が、すぐ向うに見えていた。
「あら、あすこはどうしたんでしょう。」
 俊子ばかりでなく、姉もまだそれを知らなかった。
「あすこで泳ぐと面白いんですよ。」
 そう云って彼は眼を円くしてみせた。
「どうして。」
「一里ぐらい沖まで持って行かれちまうんです。」
「え、沖へ?」
「潮の加減で引力が強いんです。それに乗ったが最期、沖へ流されるより外ありません。普通に、みお[#「みお」に傍点]と云ってますが、漁夫達でさえ恐れてるくらいです。そんなのが方々にあるから、この海ではうっかり泳げません。毎年死ぬ人があるんですよ。」
「本当?」
 姉が吃驚《びっくり》した顔をして彼の方へ向き直った。
「本当ですとも。もっと面白いことがありますよ。地引網《じびき》にね、時々大きな鱶《ふか》や鮫《さめ》がかかってくることがあるんです。するとその腹の中から、人間の頭がよく出てくるんですって。」
「まあ、いやだこと!」
 その叫びにも無頓着かのように、俊子はやはりじっと沖の方を見続けていた。
「もう帰りましょうよ。何だか気味が悪いから。」
 広い砂浜には、太陽の光りがじかに照りつけてるきりで、誰の姿も見えなかった。彼方に数隻の漁船が、置き忘られたように静まり返っていた。
「海を見てると、何だか引き込まれるような気がするものね。」
 俊子はそう云って、初めて我に返ったらしく立ち上った。

     三

 気味が悪いと云いながらも、姉は地引網を引張ってやるのが好きだった。
 朝早くから十時頃まで、波がさほど高くない時、海岸の方々でそれが行われていた。
「立って見てねえで、手伝ってくれたらよかんべえ。」
 そういう囁きが耳にはいってから、姉はいつも着物の裾をからげて、逞しい男女の間に交って、地引網の綱につかまった。一生懸命に引張ってはいるのだが、つかまってるのと大差なさそうだった。彼も時々綱を引いてみた。沖に引かれる力の強さを手に感じて、ともすると足がよろけそうだった。ただ俊子は、少しも手出しをしなかった。
 鯵や梭魚《かます》の類が、少い時は桶四五杯多い時には三四十杯も取れた。特殊な魚だけを別により分けて、残ったのを桶一杯ずつ砂の上に積み上げた。買手が大勢来て待っていた。
「手伝った東京|者《もん》に、これをくれてやるべえ。」
 幅利きらしい男が大きな太刀魚をぽんと投ってくれた。
「有難うよ。また手伝うべえ。」
 姉はおかしな調子で云い捨てて、まだぴんぴんしてる太刀魚を、尾《しっぽ》でぶら下げながら飛んでいった。
「豪勢威勢のええ女《あま》っちょだなあ。」
 地引が上ると漁夫達は皆機嫌がよかった。姉も機嫌がよかった。
「どう?」彼女は俊子の前に手の魚を振ってみせた。「私が海にはいってつかまえたのと同じことよ。」
「そうね。」
 苦笑とも揶揄ともつかない俊子の言葉に、姉は一寸意気込んでみせた。
「私は海で鍛えた真黒な人達の間に交って、その生活を味うのが好きよ。あなたはもっと元気にならなくては、折角海に来た甲斐がないわよ。松原を歩いたり海岸をぶらついたりするきりでは、つまらないじゃないの。」
「私には、馴れないせいか、自然の方が面白いような気がするわ。」
「どうして。」
「どうしてって、云ってみれば、海には海の大きな霊といったようなものが感じられるから。」
「また例のロマンチックが初ったのね。」
「そうじゃないわよ。私此処に来てはじめて、海には海の霊があることを、どうしても否定出来ない気がしてきたのよ。……静夫さんはどう思って?」
 彼は何と答えてよいか分らなかった。が兎に角、彼女の言葉をじっと聞いてると妙に不安になった。
「そんなことを云ってた漁夫があります。」
「そんなら、」と俊子
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