るくなってきて、広い砂浜が蒼白く輝らし出された。

     五

 彼は朝早く起きるのが好きだった。鶏の声が聞えて東の空が白む頃から、何物にも遮られない、仄白い――而も澄み切った朝明りとなった。ここ荒海の岸辺では、夜と昼との境をなす朝霧は、一度夜が明けてから後に初めて、森や部落のまわりに立ち罩めるのだった。黎明の頃は大気が澄みきっていた。日出前に東の空へきまって出てくる黒雲の縁が、黄や紅に彩られて、それがじかに朝明りの中へ反射した。魂の底まで浄められるような曙だった。
「姉さん起きなさいよ。日の出を見に行きましょうよ。」
 二三度|掻《ゆす》ぶられて、姉は漸う眼をこすりながら起き上った。まだ一度も、海から太陽の出る所を見たことがなかった。
「そりゃ何とも云えねえぞうー。見た者でなきゃあ分んねえ。」
 水瓜《すいか》を売りにくる婆さんがそう云った。だが、日出時の東の水平線は大抵雲に閉されていた。
「晴れてるの。」と姉は尋ねた。
「ええ。」
 曖昧な調子の返辞だったが、それでも姉は起き上ってきた。
 これが例の二葉より香しというあの木かしらと怪しんだ、大きな旃檀《せんだん》の木の下に転ってる、木の切株の上にあがって、更に爪先で伸びあがって、東の空を透しみたが、まだ黝ずんでる大空の色と見分け難いほどのものが、低く横ざまに流れていた。
「あれは雲じゃないの。」
「さあー……。」
 横飛びに飛んで、向うの無花果の木の低い枝につかまり、ぴょんと跳ねて葉の間から覗くと、黒雲の下がすっと切れて、紅をぼかした銀色に輝いていた。
「大丈夫ですよ、下が切れてるから。」
 海鳴の音がいつもよりはっきり聞えていた。地引網の喇叭が響いてきた。たとい日の出が見られなくとも、損にはならなかった。それにもうどうせ起き上ったのだから。
「俊子さんも起してくるわ。待っていらっしゃい。」
 彼が深呼吸をしてる間に、日に焼けた姉の浅黒い顔と俊子の蒼いほど白い顔とが、ふわりと飛んできた。
 草の葉末にたまった露を踏んで、粗らな松林の裾をぬけると、その向うがすぐ海だった。松の間から東の空がちらちらと見えていた。
「あら、あんなに雲がかけてるわ。」
 僅かな雲だと思ったのが、暫くの間に東の空を蔽い隠して、なお次第に拡がりそうだった。
「仕方ないから地引網の綱でも引くんですね。朝っぱらから景気がいいですよ。」
 砂丘の上に、蟻のような人影が見えていた。
「知らないわ。……こんなに早くから人を起しといて!」
 つんと澄してすたすた足を早める後から、俊子は落付いた声で注意した。
「でも、他《ほか》で見られないような変な朝ね。」
 東の空の大きな黒雲の影に包まれて、盲《めしい》たようなだだ白い明るみが遠くまで一様に澄み切っていた。
 真先に歩いていた彼は、俄に足を止めた。松林のつきる処に四五本の雑木があって、その下枝のあたりに、白いものが真円く浮出してゆらりと動いた……と思ったのは瞬間で、よく見るとだらりと垂れ下っていた。
 ぞーっと身体が悚んだ。が、引き止めた息が保ちきれなくなった間際に、ほっとした。木の枝に提灯がかかってるのだった。
「どうしたの。」
 黙って歩き出すと、此度は喫驚した調子の声で、
「蛇でも居たの。」
 彼はやはり黙って頭を振った。何だか白茶けた気持ちになった。ぼんやり眼を挙げて眺めると、提灯は白張りの無紋だった[#「無紋だった」は底本では「無絞だった」]。それが一寸変だった。
「あら、静夫さんは蛇がお嫌い?」
 わざと不思議がったようなしなをした声だった。
「ええ、可笑しいほど嫌いなのよ。」と真中に居る姉が答えた。
「そう。私はどちらかというと好きな方よ。」
「蛇が!」
「ええ。もとは嫌いだったけれど、だんだん好きになるような気がするわ。一番いやなのは蚯蚓、ぬらぬらしてるから。」
 蚯蚓がいやで釣が出来ない自分のことを思い出して、彼はふと振り返ってみた。
 俊子はもう眼を地面に落して、其処に匐ってる蚯蚓の上を飛び越していた。その顔が、気のせいか、提灯と同じような白さに見えた。

     六

 晴れた日には、地引網を見たり、水にはいったり、散歩をしたり、松林の中に迷い込んだり、畑の薩摩芋を盗みに行ったり、遊ぶことはいくらもあったが、雨の日は退屈で仕方がなかった。雨と云えば大抵風雨だった。
 南寄りの東に海を受けてる土地だったが、海鳴の音は多く南か北かに聞き做された。南で鳴れば不漁、北で鳴れば大漁、としてあるその海鳴が、風雨の晩は南にも北にも聞えた。その響きに包まれて、雨と風との音がざあーと雨戸にぶつかってきた。
「あれ、今時分どうしたんでしょう?」
 耳を澄すと、なるほど地引網の時と同じ様な喇叭の音が、遠くかすかに伝わってきた。
「船上げですよ。」
「船上
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