げってなあに?」
「波が高いから、漁夫《りょうし》達を集めて船をずっと陸の方へ引上げるんです。姉さんはそんなことも知らないんですか、通《つう》ぶってるくせに。」
 やりこめられたことも知らないで、姉はただ不安そうに眼を見張った。
「そんなに波が高いかしら。……いやな音ね、難破船でもありそうな。」
「あるかも知れませんよ。」
 ランプの光りが妙に薄暗く思われた。
「今にこのランプの光りが暗くなってくると、海坊主がのっそりとはいって来るかも知れません。」
「馬鹿なことを仰言い。海坊主なんていうものが居るものですか。」
「居りますとも、現に見た者があるんです。」彼は口をつんと尖らしてじっと姉の顔を見つめた。「夜遅く漁から帰ってきますとね、俄に海が荒れ出して、それを乗りきってゆくうちに、人間の形をした真円い山が向うに聳えているんです。然し一日のうちにそんな山が出来るわけはありません。こいつ怪しい奴だなというので、船頭達は力一杯櫓を押しながら[#「押しながら」は底本では「押しなから」その真中目がけて船を乗りかけたものです。すると、山の中を船がすーっと抜けた、山は後ろにやはり聳えてるんです。船頭達は胆をつぶして、なおえっさえっさ漕いで行くと、何処からともなく温い風が吹いてきて、眼も口も鼻もないノッペラボーが船の舳に手をかけて、ぬっと伸び上って、それから……恐いかあー……。」
「何ですね、変な声を出して?」と伯母が横合から笑いながら口を入れた、「それは姐妃のお百の海坊主じゃありませんか。」
「伯母さん知ってるんですか。そんなら話すんじゃなかった。」
 姉はほっとした様子で、それでもなお気味悪そうな色を浮べて、姉の方を睥んだ。
「おどかそうたって駄目よ。化物なんか居るものかと云ってた癖に、化物贔屓の俊子さんがいらっしたものだから、すっかりかぶれちゃって、つまらない話をしてるのね。」
「あら私が化物贔屓だなんて……。」
 とは云っても、俊子は眼付で笑っていた。
 それきりあたりがしいんとしてきたのを、姉は突然大きな声で、「さあ、先刻の続きをやりましょう。」
 船上げの喇叭に中断せられたトランプが、また初められた。
 云い出した姉へ、彼は美事にスペートのクインをつけてやった。そこへまた姉は、俊子からスペートの五を背負い込ませられた。
「いいわ、覚えていらっしゃい。分ってるわよ、化物同志で私をねらってるのね。」
 俊子は彼と眼を合わして、くすりと笑った。口元に指で押したような凹みが寄って、ちらと瞬いた睫毛が、鳥の翼みたいな影を眼の中に落した。
 ハートの切札の時に勝つようにと、彼は何がなしそんなことを心に念じた。
 けれど、そういう遊びのうちにもともすると、真暗な夜が忍び込んできた。風はいつのまにか止んで、しとしととした霖雨を思わせる雨音だった。それがなお戸外の夜の暗さを偲ばせた。此処に来て初めて、鼻をつままれても分らない闇夜を知ったという、その暗闇が室の隅々から覗いていた。
「明日《あした》も海が荒れそうですね。」
 南に廻った海鳴の音をじっと聞いていた伯母が、トランプの方をそっちのけにして云った。が誰も返辞をしなかったので、伯母は一旦噤んだ口をまた開いた。
「もう二三日で九月ですね。」
 滅多に海へも行かない伯母は、早くから退屈して東京へ帰りたがっていたが、俊子のためにというので、皆と共に八月一杯滞在することになっていた。その八月がもう二三日きりとなってるのだった。
「あと僅かだから、うんと遊びましょうよ。私徹夜しても構わないわ。」
 だが、そういう姉の声も、昼間からの遊びに疲れはてていた。
「負けると猶更止められなくなるんですってね。」
「あら、あなたの方が負けが込んでるじゃないの。」
「そうかしら。」
 点取りの表を覗き込んだ俊子の細そりした頸筋が、彼の眼の前に滑らかな皮膚を差伸べた。

     七

 明日東京へ帰るという日は、朝から綺麗に晴れていた。これを最後だというので、地引網にゆき、海岸をぶらつき、水にはいり、また松林の中を歩いた。春には松露《しょうろ》が沢山取れるという松林の中には、所々に名もない箪が出てるきりだったが、その代りに、尾長《おなが》と俗に呼ばれてる白と黒と灰と三色の美しい鳥が沢山居た。巣立ったばかりの雛が枝から枝へと危っかしく飛び移っていた。
 彼はその雛の小さいのを一つ、松から揺り落して家の庭に持って来た。持っては来たが、さてどうしていいか分らなかった。
「あら、なあに?」
 張りのある澄んだ俊子の声が響いたかと思うと、此度はやはり彼女の喉にかかったゆるやかな声が、
「まあ、可愛いいんですね。」
 飯粒を持って来てくれてやったが、食べようともしなかった。地面に置かれるときょとんとした眼付をしてじっとしてるのに、掌
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