囁く。「恋すな、恋すな!」とまた囁く。
それに耳を澄すと、「凡て空なり!」初秋の風の音がごーっと鳴っていた。
八
「今じきにいくから、遠くへ行かないで待ってて頂戴。」
こまこました道具を明日の出発のために片附けていた姉は、そう云いながらもやはりゆっくり構え込んでいた。はいりきれないほどの品物をどうにかつめ込もうと、バスケットの側にいつまでもくっついてる伯母の方は、姉よりも更に気長だった。
「ほんとにいい月よ。」
俊子の言葉をきっかけに、彼もぷいと外に飛び出した。
東の空に出たばかりの月は、松林に距てられて見えなかったけれど、ランプの光りの薄暗い家の中よりは、もっと明るいぱっとした夜だった。物の影が長く地を匐ってる上を、二人は黙って海の方へ歩いていった。
踏み込むと冷りとする叢の中で、虫がしきりに鳴いていた。それへ月の光りがくっきりと落ちている処で、二人はふと足を止めて、姉が来るのを待った。
「私何だか明日帰るのだという気はしませんわ。静夫さんは?」
明日帰ることばかりではなかった。此処に来たことが、今こうしていることまで凡てが、夢のように思われた。黙ってると、波の音が遠くに聞えだしてきた。
「海は実際いいですね。」
「ええ、ほんとに!」
と俊子がすぐに応じてくれたけれど、変に気まずく思われた自分の言葉の調子が、まだ彼の頭から去らなかった。つと横を向いて、大事に持ってきたABCに火をつけた。
「いい匂いの煙草ですわね。私も吸ってみようかしら。」
彼が黙って差出したのを、彼女は笑いながら一本取ったが、
「ああ、これは駄目。吸口がないから。」
戻されるのを受取る拍子に、息がつまるような甘っぽい化粧の香りが、ぷんと彼の鼻にきた。
姉はいつまでも来なかった。
「海まで行ってみましょうか。」
その顔を何気なく見上げると、白々と月の光りに輝らされた中に、底光る黒目と赤い唇とが、まざまざと浮出して見えた。
彼は身体が堅くなるのを覚えた。静かな夜、月の光りの中に、彼女と二人で立ってることが、息苦しくて不安だった。余りに目近く彼女の側に居ることが、しみじみと胸にこたえて、身の動きが取れなかった。それを、黙ったまま歌も歌わないで、彼から追っつかれるのを待つかのように、ゆっくりと足を運んでる彼女の後ろ姿が、ぐいぐい引きつけていった。黒い髪のはじから覗い
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