月かげ
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)側目《はため》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22]
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 四月から五月へかけた若葉の頃、穏かな高気圧の日々、南西の微風がそよそよと吹き、日の光が冴え冴えとして、着物を重ねても汗ばむほどでなく、肌を出しても鳥肌立つほどでなく、云わば、体温と気温との温差が適度に保たれる、心地よい暖気になると、私は云い知れぬ快さを、身内にも周囲にも感じて、晴れやかな気分に包まれてしまった。思うさま背伸をしてみても、腕をまくってみても、足袋をぬいでみても、頭髪を風に吹かしてみても、爽快な感触が至る所にあった。着物も家具も空気も空も日の光も、一寸ひやりとする温かさで、肌にしみじみと触れてきた。そして何処にも、眼の向く所には、こんもりとした新緑の二枝三枝が見えていて、葉の一つ一つが輝かしい光を反射し、仄かな香をも漂わしていた。この愉快な一日をどうして過したらよかろうかと、そういった風な気持に私はなって、如何にせっぱつまった仕事が控えていても、それをみな明日へ明日へと追いやって、何処へともなく出歩くのだった。凡ての人がなつかしく、凡てのものが珍しくて、私の心はにこにこ微笑んでいた。
 終日遊んだり歩いたりしても、なお倦き疲れることがなかった。自分の身体がまた思いが、日の光や街路の灯に最も近しく親しかった。夜が更けても、家に帰って寝るのが惜しまれた。空は晴れてるし、夜の空気は爽かだし、街路の灯は美しいし、最後にも一度酒か珈琲か、熱いものが一二杯ほしくなって、連れの友人を無理に誘ったり、或はまた自分一人で、十二時過ぎまで起きているとあるカフェーの、明るい室にはいって行くことが多かった。
 そのカフェーに、お光という女がいた。少しも美貌ではないが、何処と云って憎気のない円っこい顔をして、眼よりも寧ろ頬辺で、いつもにこにこ笑っていた。それが私の気に入った。私は日本酒や洋酒や珈琲などを、その時々の気分によって、ちびりちびりなめながら、彼女は卓子に両肱をつきながら、別に話をしたり冗談口を利き合ったりしようという気もなく、多くは遠慮のない沈黙のうちに、側目《はため》にはいい仲とでも見えそうに、ただぼんやり微笑み合っていた。友人と一緒の時には、僕のマドンナのお光ちゃん、などと冗談に云っていた。
 白い天井、白い壁、白い卓子の例[#「例」はママ]、天井から下ってる明るい電燈、勘定場の両側の大きな棕櫚竹、そんなもの凡てが夜更けの空気にしっとりと落着いて、そして私もその中に落着いてしまって、どうかすると我知らずうとうととすることもあった。
「まあ、嫌ね。何していらっしゃるの。」
 或る晩もそう云ってお光に起されて、私ははっと我に返った。そして杯を取上げたが、銚子の酒はもう残り少なに冷たくなっていた。
「熱いのを持ってきて上げるから、もっとはっきりなさいよ。」
 欠伸《あくび》でそれに答えておいて、あたりをぼんやり見廻すと、先刻の不良少年らしい四人連れや、職人めいた二人連れは、もういつのまにかいなくなって、私一人取残されていた。いやに静かな変な晩だな、と思ったが、その瞬間に気がついた。私一人ではなくて、室の隅っこにも一人青年の客がいた。
 二十四五歳のその青年を、私は何度かそのカフェーで見た。カフェー以外でもっと親しく近々と見たような、妙な印象があったけれど、それははっきり思い出せなかった。ただ、他人を馬鹿にしたような、もしくは自分自身を馬鹿にしたような、そして何処か釘が一本足りないような、変梃な感じだけがはっきりしていた。髪を長くした痩せ形の美男子で、両手か両足か両耳か、何でもそういった左右の部分に、どこか不釣合な不具な点がありそうな身体付だった。
 もう一時近くで、窓のカーテンも下ろされ、表の硝子戸には白布が引かれていて、室の中がただ白く明るかった。彼は一人ぽつねんとしており、私の所へももう誰もやって来ず、四人の女達は向うの隅にかたまって、何かひそひそ囁き合っていた。この方が却って静かでいい、と私は思いながら、一人でちびりちびりと酒を飲み、酔った眼付をぼんやり空《くう》に据えて、時間過ぎのカフェーの暮春の夜の静けさに、うっとりと心で微笑みかけていた。と、驚いたことには、向うの男が、やはり酔眼を空に据えながら、にこにこ独り笑いをしてるのだった。
 その時、私は初めて思い出した。彼とはそのカフェー以外に、撞球場で一度出逢って、幾回かゲームを争ったことがあった。彼は私よりだいぶ上手だったが、私の方が勝がこんだ。それでも彼は、勝ち負けに関せずゲームになると ただ[#「なると ただ」はママ]にやにや笑っていた。人を馬鹿にしてるのか、或は全く虚心平気なのか、或は少し呆けてるのか、黙ってにやにや独り笑いをしながら、球を並べ直すのだった。その余りに無感情な中性的な笑いに、私はしまいには腹を立てて、彼との勝負を止してしまった。
 その時のと、感じは違うが性質は似寄ってる笑いだった。私がじっと眺めてるのを知ってか知らずにか、彼はやはりにこにこ独り笑いをして、うっとりと空を見つめていた。その眼が、貝殼のような濁った光りではあるが、それが却って一寸美しかった。見ているうちに、私もつい引き込まれて、頬のあたりに笑いが浮んできた。そして私達は一緒になって、何という故もなく微笑み合っていた。
 そこへお光が私の所にやって来た。私は彼女に真正面から微笑みかけた。彼女も頬辺でにっ[#「にっ」に傍点]と笑って応じたが、その顔をすぐに引締めた。
「何だか変でしょう。」
 声を低めた調子がただごとでなかった。
「何が。」
 隈取った小さな眼を無理に大きく見開いて、肩の影から指先で、彼方の青年をさし示した。
「どうかしたのかい。」
「ええ。……そして、あんなに一人でにやにやしてて、どうも可笑しいのよ。」
「なあんだ、そんなことか。それじゃ僕も今にこにこしてたから、変なののお仲間だね。君だってよくにこにこしてるじゃないか。」
 云われてからにっこり笑ったが、またすぐに真顔になった。
「いいえ、ほんとに変なんですよ。先刻《さっき》ね、一人で酒を飲んでるうちに、ふいに大きい声で泣き出してしまったのよ。他にも七八人お客さんがいたのに、その人前も構わずに、随分長い間泣いてたのよ。はたから何と云っても、まるで聾のように返辞一つしないで、ただしくしく泣いてるんでしょう。弱っちゃったわ。それから、こんどはあんなに、にやにや独り笑いをしだして、その笑い方がまた変なんでしょう。気がどうかしたんじゃないでしょうか。」
「だって、ここへ時々来る人だろう。」
「ええ、何度かいらしたわ。それに今から考えると、いつもにやにやしてて、何だか普通と違ってたようなんですよ。」
「じゃあ狂人《きちがい》かね。」
「だと困るわ、気味が悪くて……。」
「なに大丈夫だ、狂人だったら僕が引受けてやる。笑い上戸の狂人なんか僕は大好きだよ。その代り熱いのをも一本頼むよ。……あ、もう一時だね。じきにおしまいにするよ。」
「いえ、まだいいのよ。」
 お光が向うに行って、他の女達に何やら囁いて、銚子を取りに奥へはいっていった間、私は煙草に火をつけて、かるく煙を吐きながら、青年の方をじっと眺めやった。すると彼も私の様子を見て取って、さも友人にでもめぐり逢ったかのように、露わににこにこ笑いかけてきた。私も仕方なしににっこりとしてみせた――というより寧ろ、彼の笑いに引入れられたような工合だった。そして一寸、後の始末がつかないといった風な、変梃な時間が続いたが、その時、ぼーんと一つ彼方の天井下で、掛時計が一時を打った。
 助かった、という気持で私は眼を外らして、時計の方を仰いだが、その瞬間に、彼は立上って、よろよろした足取りで私の方へやって来た。
「暫くでした。」
 何の奇もない普通の挨拶だった。
「暫く。」と私も機械的に応じた。
「其後如何です。」と彼は重ねて云った。
「え。」
「球《たま》は……。」
 よく覚えてるな、と私は思って、ただ笑みを浮べたが、彼はもうにこにこ笑いながら、私と向合って腰を下ろしていた。
「これから二三ゲームやりに行きましょうか。」
「でも、もう一時だから。」
「そうですね。」
 事もなげに答えてから、彼はまたにこにこしながら私の方をじっと見つめてきた。
 私は変に気圧《けお》された心地になって、てれ隠しに煙草を吸い初めた。そこへ、お光が銚子を持ってきた。
 彼女はいつにない鹿爪らしい顔をして、二三歩離れた所につっ立って、不思議そうに私達の様子を見比べた。
「まあ坐ったらいいじゃないか。」
 返辞に迷ってる彼女の様子を見て、私は急に一瞬前の気まずさから脱して、却って可笑しな愉快な気分になった。
「おい杯をも一つくれよ。この人は僕の旧友だったんだ。それを今思い出したってわけなんだ。」
「杯ならありますよ。」
 そう云って彼は無雑作に立上って、初めの自分の席から杯と飲み残しの銚子までも取って来た。その間に私はお光へ云った。
「大丈夫だよ、黙ってるから……。」
 笑っていいか取澄ましていいか分らなそうな顔付をして、お光が私達の側に腰を下ろすと、私は向うの女達へも呼びかけた。
「おいみんな来てごらん。隅っこに引っこんでばかりいないで。」
 エプロンをつけた四人の女達が並んだ中で、彼はにこにこしながら黙って酒を飲み初めた。が不意に、唄を一つ歌おうと云い出した。
「唄はいけませんよ、もう……。」
 一番年上のが止めようとするのを、私は無理に制して、彼に歌わせた。彼は追分を一つ歌った。喫驚するほどいい声だった。皆感心して黙り込んでしまった。彼は歌い終って、またきょとんとした表情で、にこにこ笑いながら、だだ白いがらんとした室の中を見廻していたが、突然真面目な顔付になって云った。
「君達四人でジャンケンをしてごらん。」
「そしてどうするの。」
「勝った者に歌をうたわせようと云うのよ、屹度。」
「いやなことだわ。」
「いや、何でもないんだから、」と彼は云った、「とにかくジャンケンをしてごらん。」
「何でもないんなら、したってしなくったって同じじゃありませんか。」
「だからしてごらんよ。頼むから……一度だけでいい。」
 彼女達はくすくす笑いながら、ジャンケンをした。三人共気乗りがしないらしく、握ったままの拳をつき出したが、お光一人はぱっと大きく手を開いた。
「あら。」
 しまったという顔付で、彼女は彼の顔を見上げたが、彼は何とも云わないで、私の方へ向き直った。
「こんどは私とあなたとしましょう。」
「そうですか。」
 そして私は何気なく拳を差出したが、彼の様子を見て喫驚した。彼は如何にも真剣らしく、上目がちにじっと私の顔を覗き込んできた。貝殼のような眼の光が、変に底暗く黝ずんで、白々とした額とぼーっと酒気のさしてる頬とに、変に不気味な対照をなして、私の方を窺ってるのだった。何故に彼がそう真剣になってるのか、私は更に見当がつかなくて、少し慴え気味にもなって、冗談にまぎらそうとした。
「君は何を出すんです。」
 彼はそれに答えないで、私の方を一心に見つめていた。その時私は、ジャンケンの勝負は全く気合一つだ、とそんなことを彼の気込みから思い浮べた。が、やはり真剣にはなれなかった。掛け声をしながら、拳を振り上げざま、カミを出すぞといわんばかりに指を開きかけて、そのままカミを出すと、彼は二本の指をぱっと開いて勝った。
 その瞬間に、彼はにやりとしてほっと吐息をしたが、何故か眼を伏せて黙り込んでしまった。
「駄目よ、今のは八百長だから。」
 お光が不意にそんなことを云った。それが何かしら私の気持を害した。
「じゃあも一度やり直して見よう。君、も一度やって、八百長でないところを見せてやろうじゃありませんか。」
「やりましょう。」
 そし
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