て私達はまたジャンケンをしなおした。彼は何だか気抜けがしたようにぼんやりしていた。それに反して、私は妙に真剣になりだしてくるのを感じた。所が勝負にはまた負けた。も一度挑んだ。此度は勝った。そうなるとどちらが勝ちか分らなくなって、何度も何度もやり直した。勝ったり負けたりしてはてしがなかった。そのくせ妙に気乗りがしてきて、はっきり勝負をつけないでは止められなくなった。彼もまた次第に興奮してきた。
「もうお止しなさいよ、馬鹿馬鹿しい。」
一番年上の女にそう云われると、なおそれに反抗してみたくなった。
「一体何のためのジャンケンなの。」
返事につまって、黙って彼の顔を見ると、彼は額に少し汗をにじませながら、やはり黙って私の顔を見返した。
変な白けきった沈黙が続いた。私はやけ[#「やけ」に傍点]に杯を取上げて、立続けに飲んだ。
「君が先にジャンケンを持ち出したんでしょう。」
「ええ。」と彼はもうきょとんとした顔付で答えた。「実は一寸占ってみたんです。」
「占いですって、何の……。」
彼は先程の勝負のことなんか忘れてしまったかのように、にこにこ笑い出しながら云った。
「この人達の中で、ひょっとしたことから、私と結婚でもするようになる人があるとしたら、どの人がそれかと思って、ジャンケンで占ってみたんですよ。」
真面目なのか冗談なのか見当がつかなくて、私は一寸挨拶に困った。するうちに彼は、ひとりでに饒舌り出した。
「世の中には、運命とか天の配剤とか、そういったものが確かにありますよ。私はそれが始終気にかかって、何かで占ってみなければいられないんです。例えば、友人を訪問する時なんか、向うから来る電車の番号をみて、奇数だったら家にいるとか、偶数だったらいないとか、そういう占いをしてみますが、それが不思議によくあたるんです。球を撞いてる時だってそうです。初棒《しょきゅう》に取る数が偶数か奇数かで、そのゲームの勝負が分るんです。朝起きて時計の針を見ると、その針のある場所で、一日の運勢が分るんです。そんな風にいつでも、何をするにも、前以て何かで占わずにはいられないんです。電車の番号、電信柱の数、どこそこまでの足数、時計の針、出っくわす男女の別、何でだって占えるんです。」
「そして本当にあたるんですか。」
「奇体にあたりますよ。」
私はふと先刻からのことを思い出して、可笑しくなってきた。
「おい光ちゃん、大変だよ。占いは最初の一番だけだから、この人が僕とのジャンケンに勝ったし、君は皆とのジャンケンに勝ったんだから、君達二人は結婚することになりそうだね。」
「あら嫌だ、そんなこと。」
くるりと向うを向いて怒った風をしたが、肩がぴくりとして、放笑《ふきだ》してしまった。それで皆も笑い出した。彼もただにやにや笑っていた。
所が、その皆の笑が沈まって、一寸沈黙が落ちてきた時、妙なことが起った。その夜更に、皆一つの卓子に集って、がらんとした中に白々と電燈がともってる、その閉め切った広い室の、窓の一つががたんと開いて、冷たい影が――空気が、すーっと流れ込んできた。と同時に、彼は物に慴えたように立上った。
「僕はもう帰ります。……勘定をしてくれない。」
私は呆気にとられて彼の顔を見守った。彼は心持ち蒼ざめて、きょろきょろあたりを見廻したが、突然に云い出した。
「実は、今日は私が心中をしそこなった日なんです。丁度二月前の今日なんです。女は死んでしまいましたが、私だけ汽車にはね飛ばされて、不思議に助かったんです。それから少し頭が変になりましてね、月の同じ日になると、無性に悲しくなったり嬉しくなったりして、自分でも訳が分らないんです。何だかがーんとして、しいーんとなって、それきり気が遠くなった時のことが、いつまでも頭の底に残ってるんですから、時々どうも……実際変ですよ。」
彼は今にも泣き出しそうな顔付になって、窓掛の縁から冷たい夜風の流れ込む開いた窓を一心に見つめていたが、それから両手に頭をかかえて、卓子の上につっ伏してしまった。
私は立上って、開いた窓を閉めに行った。誰も皆惘然として、口を噤んで眼ばかりぱちぱちやっていた。私は皆の方に背を向けて、窓から暫く外を眺めた。空に薄い綿雲がたなびいて、それにぼーっと明るい色がさしていた。
「おや、もう夜が明けるんだね。」
思わずそう云ったので、皆立ってきて外を眺めた。雲にさしてる明るみがぼーと仄白くて、今にもそれがだんだん薔薇色に染ってきそうだった。
「だって、まだ二時半じゃありませんか。」
時計を見ると実際二時半にしかなっていなかった。それにしても外の黎明は不思議だった。
「それじゃ、月が出るのかも知れないわ。」
その声をききつけて、先程から卓子に一人残っていた彼が、不意に大きな声を出した。
「月が出るんですって。」
そして彼は、五円紙幣を一枚其処に投り出して、挨拶もせずに外へ飛び出してしまった。
私は何だか妙にびっくりして、急いで勘定を払って、にっこりしたお光の頬辺に笑顔で応じながら、彼の後を追っかけて外に出た。
彼の姿はもう何処にも見えなかった。かすかに露を含んだ爽かな夜気が、酒にほてった肌に快かった。月かげの淡くさしてる綿雲を見い見い、私は恰も夢の中にでもいるような気持で、寝静まってる街路を歩き出した。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「婦人公論」
1924(大正13)年7月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング