形態について
豊島与志雄

 或る一つの文学作品中の主要人物について例えば五人の画家にその肖像を描かせるとすれば、恐らくは、可なり異った五つの肖像が得られるだろう。この五つの肖像が必然的に似てくるようなもの――実在の人物をモデルとする五つの肖像が互に似てくるようなもの――そんなものは、作品の中には余り存在しないのである。もしもそういうものが存在するとすれば、場所をかえて演劇に於ては、或る人物に扮する俳優は甚しく限定されることになろう。
 けれども、五つの肖像について、例えばフローベルの「ボヴァリー夫人」の中のボヴァリー夫人の五つの肖像について、どれが最もボヴァリー夫人に似ているかと、そういうことを論ずることは出来る。この場合、肖像の真実性を決定するのは、云わばその心理的方面にあって、形態的方面にはない。
 こういう分りきった事実は、実は、文学作品の中では人物が、形態的に如何に僅かしか描かれていないかを示すものであり、ひいては、逆に、文字を以て形態を描くことが如何に困難であるかを示すものである。目に見えるように描くということを技法の一つとして追求した自然主義文学の、最も精緻な人物描写のどこを取ってみても、その形態的明確さに於ては、実際にただ一目見た一本の手や一本の足や一人の人間には、到底及ばない。
 手術を手伝うボヴァリー夫人のスカートの動きは、生々と吾々の目に映ってくる。トルストイの「戦争と平和」の中のボルコンスキー公爵夫人の上唇やそのむく毛は、つよく吾々の目を惹きつける。だがそれは、形態的なそういう明確さが作品の中では宝石のようなものだからであり、更に、それが宝石ともなる所以のものは、形態以上のものにまで引上げられるからである。
 文学作品の中で単に形態的明確さをのみ求めるのは、勿論、無意味なことであろう。けれどもそれ以上に、更に困難なことかも知れない。
 バルザックの「知られざる傑作」は、世に隠れた或る画家のことを書いたもので、その中には幾つも絵画が出てくる。然し吾々は、その画面の大体の主題なり印象なりを知るだけで、果してどういう絵であるか、云わばその形而下的なものについては、余りよく分らない。――「近々とそばへよった二人が認めたものは、カンヴァスの隅に端を見せている一本のむきだしの足であった。それは、形なき霧のような、混沌とした色と調子とニュアンスの見定めもつ
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