かない錯雑のなかから現われていたが、かぐわしい足生きている足であった!」――だが、一体どんな足なのか?
 ドストイェフスキーの「白痴」の中で、ラゴージンの家の客間には、いろいろな絵がかけてあるが、次の部屋に通ずる扉の上方の一枚の絵は、作品の中で最も重要性を持ってるものである。それはホルバインの模写で、十字架から下されたばかりの救世主が描かれている。ホルバインの原画について「こんな絵を見たら人は信仰心がなくなるだろう。」と作者は語っているが、ラゴージンの客間の中の古びた模写は、果してどんなものだったろうか。吾々が知るところはただ、その絵が重大な象徴的役目を荷わせられてることだけである。
 茲に私は、これら大作家達の怠慢を責めるつもりではない。ただ云いたいのは、一枚の画面にしても、その形而上的なものについてはいろいろ書けるだろうが、その形而下的なものについては文字で書き難いということである。試みに考えてみよう。或る画面について、その形而下的な形態的な事柄は、誰にでもすぐに書けるようでいて、実はなかなか書けないのである。如何に文字を並べてみても、一枚の写真或はスケッチに及ばないだろう。
 勿論、形態的な方面に芸術的価値があるのではない。然しながら、芸術品たる限りに於ては、その第一義的価値も、具象を通じて現われるのであり、素朴に云えば、形態的なものを通じて現われるのである。だから、例えば、小説を書く場合にも、作者は文字によって或る人間像を描き彫むのであって、紙上に書く一字一行は、点であり線であり、色彩の一刷毛であり、鑿の一打である。少くとも真に創作の境地にはいった作者にとってはそうである。――そうではあるが、然し文学者にとって形態を捉えることが如何に困難なことであるか。
「……私の主な才能は、感情についての想像力であった。形態を喚起する能力を僅かしか具えていない私は、一の場所、一の光景、一の立像を、正確に思い出すのは容易でない。ただ二三回しか逢ったことのない人物の、眼や髪の色を云うことは、なかなか出来難い。その代りに、情緒の方は、ごく軽微なものも私の記憶の中に強く残っていて……それを再び感じ味うことが出来る。」――これはブールジェーの告白であり、心理解剖を主とする作家としては当然のことかも知れないが、然し、如何なる作家も、これに似た歎声を発しないものが果してあろうか。観察眼
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