、犬一つ見えなくって、あの白い道の上に、兵隊だけだわ。」
「………」
「そして、あんなに海が光ってきた……。」
「………」
「あたし何だか、恐ろしいような……嬉しいような気がして……。」
「………」
「あら、蒼い顔をして……。どうなすったの。」
「いえ、一寸……。」
「え、なあに……。云って頂戴、ね、云って頂戴。」
「………」
「あたし、……。ね、いや、黙ってちゃ。」
「不思議だなあ……。」
「なにが。」
「いろんなことを、一度に思い出したんです。」
「どんなこと。」
「そうだ、いつもぱっとした日の光がさしていました。」
「いやよ、すっかり云って頂戴、ねえ……。」
「わたしは、何度か……死人を見たことがあるんです。それがいつも……。」
「………」
「不思議です。いつも、ぱっと明るい日の光がさしていたんです。」
初めて死人を見たのは、高等小学校に通ってる時のことだった。家から町の学校へ行くには、松林をぬけて行かなければならなかった。その松林の中で、縊死人があった。
打晴れた爽かな朝だった。四五人の友と一緒に、学校へ出かける途中、松林をぬけると、その向うの村人が三人五人と、畑をつき切って走っていた。畑には大豆の実が熟していた。
首縊りがあった……ということを、実際耳にしたのか、直覚的に感じたのか、どちらか分らなかったが、すぐに皆は、学校の道具をがたがた音させながら、畑をつき切って走っていった。
松林のつきるところに、薄暗く茂った低い雑木林があった。その中に、何のために掘られたのか、水のない深い小溝があって、歯朶や雑草が生いかぶさっていた。その溝の上にさし出てる楠の小枝から、中年の男がぶら下っていた。
汚い手拭を二本つなぎ合して、それでぶら下っていた。首の骨が折れでもしたように、がっくり頭を垂れていた。肩から胸のあたりが薄べったくなって、腹が妙にふくれ上っていた。膝から下は溝の中に隠れて見えなかった。
もうだいぶ日がたったものらしかった。変な匂いがしていた。前日の小雨に濡れたまま乾ききらないでいる紺絣の袷が、べっとり身体に絡みついていた。顔の肉が落ちて、土色に硬ばった皮膚の下から、頬骨がつき出ていた。眼が落ち凹んで、閉じた眼瞼のまん中が、眼玉の恰好にまるくふくらんでいた。変に形のくずれた鼻から、かさかさに皺寄ってる唇へかけて、黒血の交った泡の乾いたのがこびりついて、それに山蟻が一杯たかっていた。蝿が一匹どこからか飛んできて、額の横の方にとまって、びくりびくり羽を動かしていたが、またどこかへ飛び去ってしまった。
灌木の茂みを押し分けて、大勢の人が立並んでいた。時々ひそひそと囁き合っては、またすぐに黙ってしまった。
だいぶたってから、十人余りの人と一緒に、がやがや話声をさせながら、巡査がやって来た。
その時初めて気付いたのだが、太陽の光が木立の茂みの隙間から、無数の小さな明るい線となって落ちていた。溝の縁の歯朶や雑草の葉に、露とも云えないほどの湿りがあって、それが妙に光沢のない輝きを帯びていて、そこに落ちた光の線は、ただぼーっと明るいきりだった。が死人の上には、如何にも晴れやかな斑点が印せられていた。茂みを洩れてくる朝日の光が、そのまま金箔のようになって、死体のところどころにぴたりとくっついていた。頭にも顔にも胸にも、ぽつりぽつりと、拭いても取れそうにないほど、その金箔がくいこんでいた。
中学四年の頃だった。風邪の心地で二三日学校を休んでいたが、初秋のうららかな日脚に誘われて、午前十時頃、家から三丁ばかり裏手の海岸へ散歩に出た。
穏かな内海、ゆるやかな海岸線、白い[#「白い」は底本では「自い」]砂浜、粗らな松林、それらの上に、澄みきった秋の光が降り濺いでいた。沖は平らに凪ぎながら、砂浜にさーっさっと音を立ててる波打際を、さくりさくりと歩いていった。人の姿も殆んど見えなかった。
そして五六丁行くと、遙か彼方の汀に、一かたまりの人立がしていた。松林の中から、出たりはいったりしてる者もあった。それが、広い海と長い浜辺とを背景に浮出して、夢のように静かだった。
近づいて行くに随って、物の様子がはっきりしてきた。何かを真中にして、一群の人々は円く立並んでいた。松林の中から、なお一人二人ずつ出てきて、その円陣に加わっていった。その真中のが、波に打寄せられ引上げられた、水死人だった。
水死人は波打際から二三尺のところに、仰向に転っていた。濡れた古蓆が一枚上に被せてあった。蓆からはみ出してるのは、額から上の頭部と、膝から下とだけだった。長い髪の毛が、磯に打上げられた海藻のように、毛並を揃えながらうねりくねって、変に赤茶けた色をしていた。膝から下はむき出しで、紫色にふくれ上っていた。押したら風船玉のように破けそうなほど、薄い皮膚が張りきっていた。胴体は鮪《まぐろ》か※[#「魚+豕」、435−下−13]《いるか》のように、蓆の下から円っこくふくれ上っていた。
晴れやかな日の光に、蓆からぽっぽっと湯気が立っていた。何で濡れ蓆を被せたのか不思議だったが、その時それが、丁度大きな魚にでも被せたように、如何にも調和して落付いていた。
一人二人ずつ人立がふえてゆくきりで、誰もどうしようという考えもないらしく、無関心なぼんやりした眼付で、黙ってうち眺めていた。すぐ側には、軽やかな波がさーっさっと、砂浜に寄せては返していた。そして初秋の澄みきった日の光が、あたり一面を包み込んでいた。青々とした高い空だった。朝凪ぎの静かな大気だった。
水死人の上の濡れ蓆からは、淡い湯気がゆらゆらと立って、日の光の中に消えていた。
大学にはいって間もない頃、夏の休暇に、汽車で三時間ばかりのところへ、友人を訪れていって、翌日の午後二時すぎの汽車で帰ってきた。
車室は込んでいなかった。離れ離れに腰かけてる乗客達は、曇り日の午後の倦さに、皆黙りこんでうとうととしていた。取りとめもない杳《はる》かな想い、窓の外を飛びゆく切れ切れの景色、規則的な車輪の響き、而も安らかな静寂……ぽつりぽつりと、降るとも見えぬ雨脚が、窓硝子に長く跡を引いていた。
汽笛が鳴ったようだった……が空耳かも知れなかった。凡てが妙に落付き払っていた。変だな……と頭の遠い奥で考えてると、汽車は速力をゆるめていた。ごとりと一つ反動をなし止った。
停車場でも何でもない野の中だった。と不意に、乗客の一人が立上って、窓から頭をつき出して覗いた。それが皆に伝染して、次々に窓から覗き出した。他の車室の窓からも、ずらりと乗室の顔が並んでいた。
機関車に近いところから、車掌と火夫とが二人降りてきた。列車の下を覗きこみながら、だんだん後部へやって来た。轢死人……という無音の声が、どこからともなく皆の心に伝わってきた。
車掌と火夫とは、やがて立止った。そして一寸何か囁き合った。すると火夫は、いきなり列車の下に屈み込んで、両手を差伸したかと思うまに、ずるずると大きなものを引張り出した。……白足袋をはいた小さな足、それから、真白な二本の脛、真白な腿、それから、黒っぽい着物のよれよれに纒いついて臀部、それから……腰部でぶつりと切れていた。四五寸ほどにゅっ[#「にゅっ」に傍点]とつき出た背骨を中心に、肉とも布ともつかないものが渦のようによれ捩れて、真赤な血に染んでいた。火夫はそれを無雑作に線路の横の草地に放り出した。
反対の側の窓から覗いてみると、ずっと後部の方に、真黒なものが転っていた。髪を乱した女の頭だった。南瓜のようにごろりと投り出されていた。他には何にも見えなかった。
車掌と火夫とは機関車の方へ戻っていって、列車に乗りこんだ。汽笛が一つ鳴った。汽車は進行しだした。乗客は陰鬱な顔で黙りこんでいた。向うの小川の土手に、六七人の農夫が佇んで、じっとこちらを眺めていた。雨は止んで、かすかな風が稲田の面を吹いていた。
それから、二つ三つ停車場を通り過ぎるうちに、曇り日の淡い日の光が、次第に強くなってきて、やがてぎらぎらした直射になった。小雨の後の強烈な光線だった。車室の外は、眼がくらむほどの真昼だった。
頭の中に刻まれてる轢死人の死体が、そのぎらぎらした日の光の中に浮出してきた。捩切られた腰部の真赤な切口、真白な完全な円っこい両脚、白足袋をはいた綺麗な足先、それから、ごろりと転ってる髪を乱した頭、それらが宛も宙に浮いてるかのように、まざまざに見えてきた。余りに明るい日の光だった。死体の断片を包みこんで、ただ一面に光り輝いていた。
「わたしは、暗いところでばかり……薄暗がりの中でばかり、物を考える癖がついていた。それで、死人と云えばみな、曇った日か雨のしょぼ降る日か……陰欝な空気の中にしか考えられなかったのですが、実は……。」
「日射病で倒れる兵隊と同じだと仰言るんでしょう。」
「ええ、そうです。……あなたは死人を見たことがありますか。」
「いいえ。」
「一度も。」
「ええ。」
「それじゃ私の話がよく分らないでしょう。」
「………」
「あなたは笑っていますね。」
「いいえ。」
「だって……。」
「あたし、変なことを思い出して……。」
「どんなことです。」
「あなたから、来るって手紙が参った晩でした。あたし嬉しいのか悲しいのか分らなくなって、じっとしておられなくなって、何でも手当次第に物を投り出したいような……変な気持になってしまったの。見ると、電燈のまわりに、沢山虫が飛んできてるでしょう。それをあたし、電燈の笠の中に……深い笠ですのよ……その中に紙で封じこめてやったの。甲虫《こがねむし》や小さな蛾や羽の長い蚊なんかでしたが、それが、笠の中でぶんぶん飛び廻るのを見て、あたし夢中になって……。」
「殺してしまったんですか。」
「独りでに死んでしまったんですの。死ぬまで封じこめてやったんですの。」
「あなたが。」
「ええ。ぞっとするような……もう夢中だったんですもの。」
「………」
「妹が見て、喫驚していました。だけどあたし、ただ……あなたがいらっしゃる、あなたがいらっしゃる……とそのことだけに一心になっていて、そのうちに、電燈の笠の中は熱くなって、一生懸命に飛び廻ってた虫が、ぱたりぱたりと紙の上に落ちて死んでしまったんですの。」
「電気の光にやられたんですね。」
「そうでしょうか。」
「余り光が強すぎると死ぬんです。人間だって、太陽を三十分も見つめてると、昏倒して死んでしまうそうです。」
「では、あたし……。」
「やってみますか。」
「………」
「あ、……そのあなたの笑顔がわたしは好きです。じっとして……。」
「何だか嬉しいんですの……心から……。」
「………」
「ねえ、あなたは決心していらしたんでしょう。」
「………」
「こちらにいらっしゃる前に……。」
「万一の場合の用意はしていました。」
「万一の場合って……。」
「あなたの手紙にあったじゃありませんか。」
「あたし、あの時はほんとに思いつめていたんですの。」
「今は……。」
「今も。」
「今も……。」
「ええ。だけど……嬉しいんですの。どうしたらいいか……。」
「じゃあ……わたしが……。」
「………」
「わたしは短刀を持って来たんです。それを……あなたに上げましょう。」
「短刀。」
「ええ。遅く何度も取出して眺めたものです。けれど、もうあんなものは……。」
「あたし、頂いておくわ。本当に下さるの。」
「上げましょう。」
「嬉しい。」
「どうします。」
「大事にしまっておくの。」
「屹度……。」
「………」
「また笑っていますね。どうしたんです。」
「どうもしませんわ。」
「だって……。」
「しっかりつかまえてて頂戴。あたし何だか、変な気持になったの。夢でもみてるような……。」
「………」
「あら、いつのまにか兵隊が。」
「もう通ってしまったんでしょう。そして何もかも……。」
「何もかもって。」
「わたしも夢をみてるような気持がします。そして……死んだ後のような……。」
「………」
「丁度こんなでした、友人が死んだ時も……。」
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