丘の上
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)歩廊《プラットホーム》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+豕」、435−下−13]
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丘の上には、さびれた小さな石の堂があって、七八本の雑木が立並んでいた。前面はただ平野で、部落も木立も少く、農夫の姿も見えない、妙に淋しい畑地だった。遠くに一筋の街道が、白々と横たわっていた。その彼方、暗色に茫とかすんでる先に、帯を引いたような、きらきら光ってる海が見えていた。
その丘の上の、木立の外れの叢の上に、彼等は腰を下した。枝葉の密なこんもりと茂った白樫が、濃い影を落していてくれた。彼は帽子とステッキとを傍に投り出して、ハンカチで顔を拭いた。汗を拭き去られたその額が、蒼白かった。が彼女の顔は、白樫の葉裏の灰白色の反映を受けてか、更に蒼白かった。眼を伏せて、日傘の柄を膝の上でもてあそんでいた。
どこにも入道雲の影さえ覗き出していないのが、不思議だと思われるくらいに、空はあくまで晴れ渡って、真夏の日の光が、あたり一面に、そして眼の届く限り一面に、じりじり照りつけていた。淋しい蝉の声が、木立の中に封じこまれていた。乾燥しきった微風が、ゆるく流れていった。
「あああれですね。」
「ええ。」
「いつもあんなですか。」
「晴れた日は大抵光っていますの。そして夜になると、篝火が見えるんですって。」
「漁船の……。」
「ええ。」
「全く妙な景色だ……。」
「どうして。」
「草藪ばかりの、上に七八本の木立があるきりの、平凡な丘と、ただ平らな畑の眺めと、それだけじゃありませんか。それが先の方へいって、地平線のところに、帯のような海がきらきら光ってる……。」
「だからあたし、一飛びにあすこまで飛んでいきたいと、いつもそう思うんですの。」
「だって、時々海へはいりに出かけるんでしょう。」
「………」
「怒ったんですか。」
「………」
「御免なさい。何も……そんなつもりで云ったんじゃないんです。」
「だって、あんまりですもの。」
「然しわたしはそう思うんですよ。ここから見ると、海はあんなに光ってるが、側へ行ってみると、やはりただの平凡な海に過ぎない……。」
「海はそうですけれど……。」
「海とは違うと言うんですか。だけど結局は、やはり同じじゃありませんか。」
「いいえ、違ってよ。」
「じゃあどう違うんでしょう。」
「どうって……それは、行ってみなければ……。」
「そうです。行ってみなければ分らない。ただそれだけの違いです。」
「でも、行ってみたら……。」
「それは案外違ってるかも知れません、また違っていないかも知れません。そして、その分らないところに非常な魅力がある。ただそれだけのことです。」
「………」
「また黙りこんでしまいましたね。それじゃ打明けて云いましょうか。わたしも、そういう魅力に惹かされたことがあるんです。」
「え、あなたが……。」
「そうです。あなたがこちらへ来てから、暫く手紙が来なかったことがありましょう。あの当時です。何もかも嫌になって、淋しくなって、不安になって、そして……あなたのことばかり考え通していました。」
「それから。」
「或る晩、夜更けに、短刀を取出して、その刄先にじっと見入ったことがありました。」
「あら、ほんとう……。そんなことちっとも……。」
「手紙には書けなかったんです。……万一のことがあったらなんて、そんなことを手紙に書くものじゃないんです。」
「だって、あたし、ありのままを書いただけですの。」
「わたしはあれを見て、はっと思って、じっとしておれなくなって、無理に出かけて来たんです。すると……。」
「またそんなこと。……ほんとに嬉しかったんですもの。お目にかかるまでは、どうしても本当だという気がしなくて、何だか夢のように思えたんですの。停車場へ行ってもまだぼんやりしていましたわ。」
「そしてふいに眼がさめたんでしょう。わたしもほんとに嬉しかった。あなたの笑顔を見ると、喫驚するほど嬉しかった。」
「だけど、不平を仰言ったじゃありませんか。」
「冗談ですよ。……あなたが今にも死にそうな顔をしていたら、わたしまで、どうしていいか分らなくなるところでした。」
「じゃあ、あなたも……。」
「え。」
「そうよ、屹度。……ね、そうでしょう。」
「いいえ、嘘です。わたしは今、全く別なものを求めています。何かこう晴々としたもの、飛び上りたいようなものが、一番ほしいんです。昨日、停車場のことを覚えていますか。」
「停車場で……。」
「あなたは、歩廊《プラットホーム》の柱の影に、ぼんやり立っていました。はいってくる列車の方に眼を向けながら、実は何にも見ていないような眼付で、顔をうつ向け加減にして、まるで、人を迎える者のようではなく、野原の中にでも一人でつっ立ってるような風でした。そしてわたしが近づいてゆくまで、人込の中に、同じ姿勢でぼんやりしていたでしょう。わたしはそれを見て、非常に淋しい気持になって、そっと近寄っていって声をかけました。するとあなたは、夢からさめたような風に、一寸の間きょとんとして、それから急に、ぱっと微笑んで、にっこり笑ったじゃありませんか。私は喫驚して、それから急に、嬉しくてたまらなくなったんです。だから、あんなことをしてしまったんです。その……何と云ったらいいんでしょう……やはり、夢から覚めたばかりのぱっとした微笑みというか、魂が飛び上ったような微笑みというか、それが、わたしの心を掴み去ってしまったのです。」
「掴み去るって、そんな……。」
「いいえ、そうです。何だか、真暗な室の中から、明るい日向に出たような、そんな風な感じでした。何もかもが、ぱっと輝り渡ったのです。あなたの中に、というか、わたし達の間に、というか、とにかくどこかに、そうしたぱっと輝くものがあるんです。」
「それもすぐに……。」
「いいえ消えやしません。消やしちゃいけません。」
「それじゃ、どうしたらいいんでしょう。」
「その光を頼りに、待つんです。じっと我慢して待っているんです。……わたしは、昨夜一晩中考えました。」
「でも、もう駄目なんです。何もかも嫌なんですもの。今日だって、いい加減のことを云って、めちゃくちゃに飛び出してきたんですの。」
「そしてお父さんは……。」
「何だか感ずいてるかも知れませんの。でも、もうどうなっても構わないわ。」
「わたしも、あなたのところまでやって来るのに、初めはそのつもりでした。そして……。」
「あなたも……。」
「然し……今日だってわたし達は、町を横ぎってここまで来るのに、人に見付からないように用心したでしょう。」
「ええ、そりゃあ……。だって、町中《まちなか》で人に見付かるのは嫌ですもの。ここなら、あたし誰に見付かっても構わないわ。父がやって来ようと、あたし逃げやしない……。」
「そうです。町中じゃ嫌だけれど、ここなら平気です。誰が来ようと平気です。……それと同じ気持でした。わたしは汽車の窓から……。」
「………」
「何もかも云ってしまいましょう。家を出る時、あなたの手紙をみな持って出たんです。そして、夜中に、汽車の中で、一つ一つ読み返しては、小さく引裂いて、みんな窓から投げ散らしてきました。」
「………」
「なぜ泣くんです。泣いちゃいけません。……その手紙の切れが、ちらちらと飛んで、闇の中に消えてゆくのを見て、わたしは胸が一杯になって、涙を落しましたが……。」
「………」
「なぜそう泣くんです。……そんなつもりでわたしは云ってるんじゃありません。今はもう別な気持で云ってるんです。」
「………」
「そうでなけりゃ、こんなことをあなたに話しはしません。誤解しちゃいけません。」
「いいえ、嘘、嘘よ。自分で自分をごまかして……。」
「ごまかしてやしません。こんなに笑ってるじゃありませんか。……どうしてそう泣くんです。」
「あたし、嬉しいの。」
「え。」
「やっぱりそうだったわ。」
「いいえ、違うんです。……わたしは何だか、眼の前がぎらぎらしてきて、丁度……この木影から、日の照りつけてる中に出たような気持なんです。泣いちゃいけません。ね、日の光をごらんなさい。眼がくらむように照りつけている……。」
丘から遠くに見下せる、白々と横たわってる街道の上を、兵隊が通っている。一寸見れば、暗褐色のうねうねとした一列だったが、それが、劒をかずぎ背嚢を荷った兵士の縦列で、ところどころに、隊側についてる将校の剣が、きらりきらりと光っていた。先頭も後尾も分らず、際限もなく引続いて、一寸した木立や村落の間にうねってる街道の上を、静に……蟻の這うように押し動いていた。丁度自働人形の玩具の兵隊のように、どれもみな四角ばった一様な姿勢で、手足を機械的に一様に動かしていた。
何かしら或る大きな力……機械的な力に、支配されきってるような行列だった。そして恐らく、声一つ立てる者もなく、片足踏み違える者もなく、粛々として永遠に歩き続けてるのに違いない、と思われるような行列だった。それが、ぎらぎらした日の光の中に、くっきりと而も遠く浮出していた。
と、不思議なことには、列の中の一人が、棒切でも倒すように、前のめりに倒れ伏した。列が少し彎曲して、倒れた一人をよけて進んでいった。列の切れ目らしいところに、黒く一塊になってる一群が、倒れた兵士をとりかこんで、暫く立止って、拾い取って運んでいった。
そういうことが幾度かくり返された。然し縦列はどこまでも続いてるらしく、次から次へ現われては消えていった。中の一人が倒れても、一寸そこをよけて通るだけで、列は少しも乱れなかった。機械的に永遠に歩き続けることだけが、彼等の全生命のように見えた。
真夏の光が、凡てを押っ被せていた。
「あら、また一人……。」
「日射病にやられて倒れたのです。」
「死んだんでしょうか。」
「さあ……。」
「ひどいわ。」
「強行軍ですよ。今日のような暑い日を選んで、早朝から出かけるんです。一人二人の犠牲は、全軍のために仕方ありません。どこまでも歩き続けることだけが目的なんでしょう。」
「………」
「どうかしたんですか。」
「………」
「え、どうしたんです。」
「何だか……頭がくらくらとして……。」
「俯向いて、眼をつぶっててごらんなさい。日の照りつけてる中を余り見つめてたせいでしょう。」
「でも……変に……。」
「え。」
「向うの下の方へ、吸いこまれて、今にも落っこっていきそうな……。」
「高いところから見下してるせいですよ。そして余り日が照ってるせいですよ。……ぎらぎらした渦巻に捲きこまれて、ひきずりこまれるような気持でしょう。」
「ええ。」
「大丈夫です。そんなに向うを見てちゃいけません。わたしにつかまって、じっと眼をつぶっててごらんなさい。じきになおります。」
「だって……。」
「高いところへ登ると、そんな気がするものです。わたしの友人がこんなことを話しました。槍が岳か白馬山か、何でも日本アルプスのどの山かですが、その頂上に登って、下の方を見下していると、今まで空にかけてた雲の切れ目から、ぱっと日の光がさしてきた。そして、足下の方が一面にぎらぎらした渦巻になって、それに捲き込まれるような気持で、ふらふらと飛びこんでしまった。幸に谷底まで転げおちないで、二三間滑っただけで済んだそうですが、とても抵抗出来ない気持だと云っていました。」
「………」
「だけど、ここはこんな低い丘ですから、それはただ、あなたの気のせいですよ。わたしがこうしてつかまえてあげてるから、大丈夫です。」
「あら、また一人……。」
「え。……やられたんだな。……強い日の光だから……。」
「どうしたんでしょう。」
「風も無くなったようですね。ここでさえこんなだから、あの街道の上は……。」
「一面にきらきらして……。」
「そんなに見つめちゃいけません。」
「田圃の中にも、どこにも、人の影も
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