ついて、それに山蟻が一杯たかっていた。蝿が一匹どこからか飛んできて、額の横の方にとまって、びくりびくり羽を動かしていたが、またどこかへ飛び去ってしまった。
灌木の茂みを押し分けて、大勢の人が立並んでいた。時々ひそひそと囁き合っては、またすぐに黙ってしまった。
だいぶたってから、十人余りの人と一緒に、がやがや話声をさせながら、巡査がやって来た。
その時初めて気付いたのだが、太陽の光が木立の茂みの隙間から、無数の小さな明るい線となって落ちていた。溝の縁の歯朶や雑草の葉に、露とも云えないほどの湿りがあって、それが妙に光沢のない輝きを帯びていて、そこに落ちた光の線は、ただぼーっと明るいきりだった。が死人の上には、如何にも晴れやかな斑点が印せられていた。茂みを洩れてくる朝日の光が、そのまま金箔のようになって、死体のところどころにぴたりとくっついていた。頭にも顔にも胸にも、ぽつりぽつりと、拭いても取れそうにないほど、その金箔がくいこんでいた。
中学四年の頃だった。風邪の心地で二三日学校を休んでいたが、初秋のうららかな日脚に誘われて、午前十時頃、家から三丁ばかり裏手の海岸へ散歩に出た。
穏かな内海、ゆるやかな海岸線、白い[#「白い」は底本では「自い」]砂浜、粗らな松林、それらの上に、澄みきった秋の光が降り濺いでいた。沖は平らに凪ぎながら、砂浜にさーっさっと音を立ててる波打際を、さくりさくりと歩いていった。人の姿も殆んど見えなかった。
そして五六丁行くと、遙か彼方の汀に、一かたまりの人立がしていた。松林の中から、出たりはいったりしてる者もあった。それが、広い海と長い浜辺とを背景に浮出して、夢のように静かだった。
近づいて行くに随って、物の様子がはっきりしてきた。何かを真中にして、一群の人々は円く立並んでいた。松林の中から、なお一人二人ずつ出てきて、その円陣に加わっていった。その真中のが、波に打寄せられ引上げられた、水死人だった。
水死人は波打際から二三尺のところに、仰向に転っていた。濡れた古蓆が一枚上に被せてあった。蓆からはみ出してるのは、額から上の頭部と、膝から下とだけだった。長い髪の毛が、磯に打上げられた海藻のように、毛並を揃えながらうねりくねって、変に赤茶けた色をしていた。膝から下はむき出しで、紫色にふくれ上っていた。押したら風船玉のように破けそうなほど、薄い皮膚が張りきっていた。胴体は鮪《まぐろ》か※[#「魚+豕」、435−下−13]《いるか》のように、蓆の下から円っこくふくれ上っていた。
晴れやかな日の光に、蓆からぽっぽっと湯気が立っていた。何で濡れ蓆を被せたのか不思議だったが、その時それが、丁度大きな魚にでも被せたように、如何にも調和して落付いていた。
一人二人ずつ人立がふえてゆくきりで、誰もどうしようという考えもないらしく、無関心なぼんやりした眼付で、黙ってうち眺めていた。すぐ側には、軽やかな波がさーっさっと、砂浜に寄せては返していた。そして初秋の澄みきった日の光が、あたり一面を包み込んでいた。青々とした高い空だった。朝凪ぎの静かな大気だった。
水死人の上の濡れ蓆からは、淡い湯気がゆらゆらと立って、日の光の中に消えていた。
大学にはいって間もない頃、夏の休暇に、汽車で三時間ばかりのところへ、友人を訪れていって、翌日の午後二時すぎの汽車で帰ってきた。
車室は込んでいなかった。離れ離れに腰かけてる乗客達は、曇り日の午後の倦さに、皆黙りこんでうとうととしていた。取りとめもない杳《はる》かな想い、窓の外を飛びゆく切れ切れの景色、規則的な車輪の響き、而も安らかな静寂……ぽつりぽつりと、降るとも見えぬ雨脚が、窓硝子に長く跡を引いていた。
汽笛が鳴ったようだった……が空耳かも知れなかった。凡てが妙に落付き払っていた。変だな……と頭の遠い奥で考えてると、汽車は速力をゆるめていた。ごとりと一つ反動をなし止った。
停車場でも何でもない野の中だった。と不意に、乗客の一人が立上って、窓から頭をつき出して覗いた。それが皆に伝染して、次々に窓から覗き出した。他の車室の窓からも、ずらりと乗室の顔が並んでいた。
機関車に近いところから、車掌と火夫とが二人降りてきた。列車の下を覗きこみながら、だんだん後部へやって来た。轢死人……という無音の声が、どこからともなく皆の心に伝わってきた。
車掌と火夫とは、やがて立止った。そして一寸何か囁き合った。すると火夫は、いきなり列車の下に屈み込んで、両手を差伸したかと思うまに、ずるずると大きなものを引張り出した。……白足袋をはいた小さな足、それから、真白な二本の脛、真白な腿、それから、黒っぽい着物のよれよれに纒いついて臀部、それから……腰部でぶつりと切れていた。四五寸ほどにゅっ[#「にゅっ
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