」に傍点]とつき出た背骨を中心に、肉とも布ともつかないものが渦のようによれ捩れて、真赤な血に染んでいた。火夫はそれを無雑作に線路の横の草地に放り出した。
 反対の側の窓から覗いてみると、ずっと後部の方に、真黒なものが転っていた。髪を乱した女の頭だった。南瓜のようにごろりと投り出されていた。他には何にも見えなかった。
 車掌と火夫とは機関車の方へ戻っていって、列車に乗りこんだ。汽笛が一つ鳴った。汽車は進行しだした。乗客は陰鬱な顔で黙りこんでいた。向うの小川の土手に、六七人の農夫が佇んで、じっとこちらを眺めていた。雨は止んで、かすかな風が稲田の面を吹いていた。
 それから、二つ三つ停車場を通り過ぎるうちに、曇り日の淡い日の光が、次第に強くなってきて、やがてぎらぎらした直射になった。小雨の後の強烈な光線だった。車室の外は、眼がくらむほどの真昼だった。
 頭の中に刻まれてる轢死人の死体が、そのぎらぎらした日の光の中に浮出してきた。捩切られた腰部の真赤な切口、真白な完全な円っこい両脚、白足袋をはいた綺麗な足先、それから、ごろりと転ってる髪を乱した頭、それらが宛も宙に浮いてるかのように、まざまざに見えてきた。余りに明るい日の光だった。死体の断片を包みこんで、ただ一面に光り輝いていた。

「わたしは、暗いところでばかり……薄暗がりの中でばかり、物を考える癖がついていた。それで、死人と云えばみな、曇った日か雨のしょぼ降る日か……陰欝な空気の中にしか考えられなかったのですが、実は……。」
「日射病で倒れる兵隊と同じだと仰言るんでしょう。」
「ええ、そうです。……あなたは死人を見たことがありますか。」
「いいえ。」
「一度も。」
「ええ。」
「それじゃ私の話がよく分らないでしょう。」
「………」
「あなたは笑っていますね。」
「いいえ。」
「だって……。」
「あたし、変なことを思い出して……。」
「どんなことです。」
「あなたから、来るって手紙が参った晩でした。あたし嬉しいのか悲しいのか分らなくなって、じっとしておられなくなって、何でも手当次第に物を投り出したいような……変な気持になってしまったの。見ると、電燈のまわりに、沢山虫が飛んできてるでしょう。それをあたし、電燈の笠の中に……深い笠ですのよ……その中に紙で封じこめてやったの。甲虫《こがねむし》や小さな蛾や羽の長い蚊なんかでしたが、それが、笠の中でぶんぶん飛び廻るのを見て、あたし夢中になって……。」
「殺してしまったんですか。」
「独りでに死んでしまったんですの。死ぬまで封じこめてやったんですの。」
「あなたが。」
「ええ。ぞっとするような……もう夢中だったんですもの。」
「………」
「妹が見て、喫驚していました。だけどあたし、ただ……あなたがいらっしゃる、あなたがいらっしゃる……とそのことだけに一心になっていて、そのうちに、電燈の笠の中は熱くなって、一生懸命に飛び廻ってた虫が、ぱたりぱたりと紙の上に落ちて死んでしまったんですの。」
「電気の光にやられたんですね。」
「そうでしょうか。」
「余り光が強すぎると死ぬんです。人間だって、太陽を三十分も見つめてると、昏倒して死んでしまうそうです。」
「では、あたし……。」
「やってみますか。」
「………」
「あ、……そのあなたの笑顔がわたしは好きです。じっとして……。」
「何だか嬉しいんですの……心から……。」
「………」
「ねえ、あなたは決心していらしたんでしょう。」
「………」
「こちらにいらっしゃる前に……。」
「万一の場合の用意はしていました。」
「万一の場合って……。」
「あなたの手紙にあったじゃありませんか。」
「あたし、あの時はほんとに思いつめていたんですの。」
「今は……。」
「今も。」
「今も……。」
「ええ。だけど……嬉しいんですの。どうしたらいいか……。」
「じゃあ……わたしが……。」
「………」
「わたしは短刀を持って来たんです。それを……あなたに上げましょう。」
「短刀。」
「ええ。遅く何度も取出して眺めたものです。けれど、もうあんなものは……。」
「あたし、頂いておくわ。本当に下さるの。」
「上げましょう。」
「嬉しい。」
「どうします。」
「大事にしまっておくの。」
「屹度……。」
「………」
「また笑っていますね。どうしたんです。」
「どうもしませんわ。」
「だって……。」
「しっかりつかまえてて頂戴。あたし何だか、変な気持になったの。夢でもみてるような……。」
「………」
「あら、いつのまにか兵隊が。」
「もう通ってしまったんでしょう。そして何もかも……。」
「何もかもって。」
「わたしも夢をみてるような気持がします。そして……死んだ後のような……。」
「………」
「丁度こんなでした、友人が死んだ時も……。」

 
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