ので、単に調子の方だけを重く見て書いている。言いかえれば、舞台の上でのエロキューションは頭に入れないで、単に、読む上の調子と云うものだけを重んじている。然しこれは作者として用意がたりないことは十分心得てはいるが。
右に述べたようなことがらの当然の帰結として、僕はいわゆるレーゼ・ドラマ、なるものの存在を肯定する。一体レーゼ・ドラマなるものは、その時代の舞台なり俳優なりの技倆なり観客の観賞眼なりを基礎としてしかなりたたない言葉であるから、以上三者の大革命があればレーゼ・ドラマも、レーゼ・ドラマでなくなってしまうかも知れない。けれどそう云う解り切ったことは別として、僕のように小説の会話と地の文とを一緒にして、これを戯曲として表現する場合には、小説が存在すると同じ理由で、レーゼ・ドラマも存在すべきものである。それならば、始めっから小説にして、色んな約束のある戯曲なんか書かなければいいじゃないかと云われるかも知れないが、作者として僕から云えば、戯曲の色々の約束が厄介である場合には始めっから戯曲なんかにしない。その約束がちっとも邪魔にならなくて小説よりも書き易い場合だってあり得る。だから戯曲を
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