ける会話は、単なる作中人物の会話だけでなしに、小説に於ける作者の地の文が加ったものであるような気がする。
従って、戯曲の会話には一つの文体と云うのが悪ければ、一つの語体が存在する。その語体に磨きをかけることが作者としての一つの修養だろうと思われる。
僕は一体小説では句とう点が非常に気にかかる。印刷になった場合に、文字の誤植に対してはひどく平気なんだけれど、句とう点の誤植には実に不愉快だ。で実際書く場合に、文字の用い方や、送り仮名なんかに就いてはひどく暢気だけれど、句とう点にはかなり神経質である。だから少しくらい意味が変になっても、無理に文句の長短とか調子とかを整えるようなことさえある。それで戯曲を書く場合のは、兎も角も中の文が全部会話であるために、なお一層気にかかる。即ち会話の調子にひどく苦心されて来る。けれども音の方に就ては、解らないせいもあるけれど、わりに気を配らない。役者の方から云わせると、調子と音とは同じように大切なものだろうし、場合によっては、両方一致するものであろうから、作者としても当然両方に気を配らなければならない筈なのだが、僕はそれ程こまかく気を配るのが面倒くさいので、単に調子の方だけを重く見て書いている。言いかえれば、舞台の上でのエロキューションは頭に入れないで、単に、読む上の調子と云うものだけを重んじている。然しこれは作者として用意がたりないことは十分心得てはいるが。
右に述べたようなことがらの当然の帰結として、僕はいわゆるレーゼ・ドラマ、なるものの存在を肯定する。一体レーゼ・ドラマなるものは、その時代の舞台なり俳優なりの技倆なり観客の観賞眼なりを基礎としてしかなりたたない言葉であるから、以上三者の大革命があればレーゼ・ドラマも、レーゼ・ドラマでなくなってしまうかも知れない。けれどそう云う解り切ったことは別として、僕のように小説の会話と地の文とを一緒にして、これを戯曲として表現する場合には、小説が存在すると同じ理由で、レーゼ・ドラマも存在すべきものである。それならば、始めっから小説にして、色んな約束のある戯曲なんか書かなければいいじゃないかと云われるかも知れないが、作者として僕から云えば、戯曲の色々の約束が厄介である場合には始めっから戯曲なんかにしない。その約束がちっとも邪魔にならなくて小説よりも書き易い場合だってあり得る。だから戯曲を
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