では、勿論小説としても立体的になればなるほど勝ぐれたものである訳なんだけれど、直接原稿用紙に向っている時の作者の眼は、随分ひろい範囲内に拡がっていなければならない。そして要は、ただ文字にすべきものとすべからざるものと、選択の如何にある。ところが脚本では、始めからのイメージが、人物それ自身の具象的な姿で表わされているし、それが舞台と云うものの中に限定されているから、作者としての眼の働きが、比較的狭い範囲内に限られ、従って、その場合その時の作の内容の凸凹変化が拡大鏡的にはっきり眼に写ってくる。そこで実際書いている作者の気持では、比較的彫刻的のような感じがする。
 但し、戯曲を書いて見て非常にはがゆい感じのする点がある。これはこの前に云ったと反対に、地の文のないせいだと云えるだろう。小説では、ある瞬間のことを書く場合にも、地の文があるために、その時以前の種々の事件の圧力が比較的らくに表わされる。ところが戯曲ではそれがかなり困難なような気がする。とは云うものの、仮りに種々の事件から来る色々の智的及び感情的の重荷を数で表わして、五のものを荷っている場合と十のものを荷っている場合とは、同じ一人の人物にしても様子なり言葉なりがかなり違って来る筈である。それで戯曲に於ても、その人物の言葉にそれだけの区別が完全に書き表わされれば、勿論問題はないけれど、そいつが非常に困難であるが、地の文の助けをかりれば、比較的たやすいように思われる。これはまだ僕がいたらないせいかも知れない。

 それから、戯曲では筋を得ると云うことが元来、戯曲の本質にも反するけれど、作者としてもたまらなく厭に感じられる。小説では、地の文のために書き方によって、どんなにでも、退屈でなく面白く書けるけれど、戯曲ではそれがどうもうまく行かない。過去の事件をどう云う風に織り込むことが出来るか、それがとても厄介になって来る。へまをすれば現在のその場の気分を壊してしまう。それかとて、筋だけを得る訳にも行かないし、その間の処置が、これはまた小説の地の文以上に厄介な気がする。

 さて戯曲だけの問題として、僕は前に云ったように、小説に於ける地の文と会話とを一緒にして会話の形にして、そして戯曲を作って、勿論ねらい方だの取扱い方にはひどい違いはあるけれど、畢竟するに戯曲の会話と云うものは、そう云う風なものじゃないかと思う。そこで戯曲に於
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