。万国赤十字社の用件で日本に来たベルギー婦人があって、京都から北陸をまわってるうち東京に地震が起り、浦和でひっかかっていたのが憲兵隊の好意により自動車で東京入をするというのである。何故か分らないが、その自動車は駕籠町までしか行かない。私が外国語を少し知ってるなら、駕籠町から先のことを頼むというのだ。五十年配の肥った物静かな婦人で、すんだ懼えた眼を伏せて黙っていた。
 その婦人と私と、他に洋服の男二人と自警団員一人、それだけ自動車にのりこんで、車体の外部にベルギー公使館と大書した紙がはりつけられた。街道は避難者で雑踏を極め、要所要所には兵士や憲兵や自警団員が監視していた。自動車は徐行し、その上時々立停った。私たちはみな黙々としていた。

 駕籠町で私たちは降ろされた。市内の様子はここでもはっきりしない。その四辻に、私はベルギー婦人とぼんやり顔を見合せた。私は覚束ないフランス語で尋ねた。「私の家に来ませんか。」彼女は低い声でいった。「なるべく早くベルギー公使館へ行きたい。」それから彼女は尋ねた。「あなたの家は無事ですか。」私はあいまいな返事をした。「無事だとは思うけれど……。」
 自動車屋
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