は倫理的の責任ではない。それは直接に、自己もしくは神を対象とする責任だ。そしてそれはやがて、釈迦の雪山の修業やキリストのゲッセマネの祈りに通ずべき一歩だ。然しそれは改めて説かるべき問題で、私はそれに就いて今茲に云々することを避けよう。
倫理的責任は、常に自由なる意志の働きから出て来るものである。そしてその責任を背負わない人があるとしたら、否そういう責任から常に免除せられている人があるとしたら、それは精神的奴隷に外ならない。自分で歩き得ない奴隷だ。そしてそれは倫理的死を意味する。何となれば、自己の為した意に対する責任を有しないというのはまだしも、自己の為した善に対する責任を有しないということは、全くフェータルなことであらねばならぬ。
此の倫理的死滅から脱するために、吾人は自由なる意志の働きに帰らなければならない。然しそれは、本能に帰ることではなく、自由に帰ることだ。盲目に帰ることではなく、知慧に帰ることだ。実感と信念とに帰ることだ。頭を牢獄から解放し、魂を裸にすることだ。
如何なる時代如何なる場所に於ても、常に人を囚えんとする多くの牢獄や殻が存する。私はそれを偶像と名づくる。吾々は
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