のが感じられるまでになっても、雀は身動きさえしなかった。それを見てるうちに彼は恐ろしく退屈になった。
 彼はまた頭を枕につけて眼を閉じた。転地して来てからの二ヶ月間のことが頭に映じてきた。それがまた恐ろしく退屈なものであった。
 彼は深い憂鬱と銷沈とに陥っていた。それはふとした気分の転機から、いつもよく陥ってゆく空虚な淵であった。夢の中で高い処から下へ落ちてゆくような気持ち、それに甘えながらもそれに息づまるような気持ち、そういう気持ちで彼は空虚な淵の中へ沈んでいった。何をするのも懶いがまたじっとしても居れなかった。底知れぬ寂莫の感が胸の奥からこみ上げて来た。眼を閉じるとあたりが薄暗い荒廃の気に鎖されそうな思いがした。彼は大きく眼を開いて、眸をぼんやり天井に向けていた。然し何も見てはいなかった。
 彼はその空しい寂莫のうちに甘え耽りながら、どれ位時間がたったか知らなかった。その時女中のはる[#「はる」に傍点]が、一通の手紙を持って来た。
「奥様は只今手が汚れて被居《いらっしゃ》いますから。」と彼女は云った。
 手紙は東京の秀子から妻へ宛てたものだった。彼はその封を切った。例の通りつまらないことをも甘ったるい文句で長々と認めて、終りに、静子さんをも誘って明後日あたり遊びに行くかも知れないというようなことが、書き添えてあった。
 手紙を読んでるうちに、彼の心は次第に明るくなった。読み終ってそれを枕頭に放り出すと、彼の気分は一種の快い雰囲気に包まれていた。彼女等の派手な衣裳の色彩や明るい声の調子などが、彼の頭に浮んできた。
 すると彼の心のうちに、妙な矛盾が起ってきた。一瞬間前の陰欝な気分と現在の快暢な気分とが、その間に不調和な溝を拵らえて、彼の心の中で互に面し合ったからである。自分でも訳の分らない妙な矛盾さであった。そしてそれを見つめながら、彼はいつもの癖となってる、きびしい自己解剖に耽っていった。
 ――病人にとっては、男性の力よりも女性の柔かさの方がよほど快い。看護人はどうしても女性に限る。――そういう点から彼は、思索……というより寧ろ夢想の糸口をたぐっていった。すると先日、妻が用達しに出かけていた時、見舞に来ていた秀子とぽつぽつ意味もない話をしていた時、ふと窓硝子が人の息に曇る位の軽やかな心地で、もし僅かな事情の差があったら自分は秀子と結婚していたかも知れない、というようなことを、これからでも何かの機会で秀子と恋し合わないとも限らない、というようなことを、感じたことがあったのを思い出した。凡てのことは偶然の機会によって決定されまた偶然の機会によって覆えされ得る、というような気がしてきた。平素安心して信頼しきってることもいつどうなるか分らないような不安な気がしてきた。凡ては気まぐれな運命の僅かな歩み方に懸ってるような気がしてきた。――自分は何かのことで秀子を恋するようになるかも知れない。そして自分の妻も何かのことで、例えば……瀬川を恋するように……。
 其処《そこ》までくると、彼の夢想はぐるりと一つ廻転した。――瀬川だって、何かのことで自分の妻を恋するようになるかも知れない。瀬川がああやって自分を訪ねて来てくれるのも、妻が居るからかも知れない。もし自分一人だったら、あれほどよくは訪ねて来てくれないかも知れない。少くとも妻が居ることは、自分一人でいるよりも瀬川にとっては快いことに違いない。自分の経験から云っても、下宿に一人で転ってる友人を訪れるのよりは、若い妻君の居る友人を訪れる方が気持ちがいい。そして……。
 その時、白いエプロンをかけた妻の姿が現われた。彼は夢のようなぼんやりした気持ちでその方を眺めやった。
「秀子さんから何と云って来ましたの?」と彼女は云った。
 彼は俄に夢想から外に放り出されたまま、一寸答えの言葉も口から出て来なかった。
「一寸拝見。」
 そう云って彼女は手祇を読んだ。
「まあ嬉しいこと。ほんとに二人で来て下さるといいわね。」
「うむ。」と後は機械的に返事をした。
 妻がまた台所の方へ立って行くと、彼は自己嫌悪に近い苛ら立った気持ちになった。余りに馬鹿馬鹿しい考えに、(而も余りに馬鹿々々しいため却って油断してはいけないような考えに、彼は一種の憤激を感じた。そしてその憤激のやり場を求めるように、「病気がいけないのだ、長い退屈な病気がいけないのだ、」と彼は心のうちに叫んだ。然しそれでも、心の底に軽い憤懣の念が動くのを、どうすることも出来なかった。
 ――兎に角早く病気を治《なお》すことだ、と考えて彼はしいて心を落着けようとした。もし馬の脊髄が結核に効果があるなら、それを注射しても構わない。
 然しその時彼の頭に浮んだ馬は、胴の毛と尾とを短く刈り込み、足には鉄蹄をつけ、鬣を打って嘶く、逞しい乗馬ではなかった。惨め
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