愚かな一日
豊島与志雄

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夢現《ゆめうつつ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三十|目《もく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
−−

 瀬川が来ているのだなと夢現《ゆめうつつ》のうちに考えていると、何かの調子に彼はふいと眼が覚めた。と同時に隣室の話声が止んだ。彼は大きく開いた眼で天井をぐるりと見廻した。それからまた、懶い重みを眼瞼に感じて、自然に眼を閉じると、また話声が聞えてきた。やはり妻と瀬川との声だった。彼はその方へ耳を傾けた。
「……どうして取るのでございましょう?」
「さあ私も委しいことは聞きませんでしたが、医者に御相談なすったら分るでしょう。もし本当にそういうことがあるなら、もう専門医の間にはよく知られてる筈ですから。然し何しろ馬一頭を、そのためにわざわざ殺さなければならないから、たとえ効果が確かでも、広く実際に応用されるわけにゆかないのだと思いますね。私の友人の場合でも、院長が最後の手段として試みたものだそうですから。」
「でも確かにそれで治《なお》るものとしましたら……。」
「所が確かに治るとも断言出来ないのかも知れません。多くは体質によるんでしょうから。ただ私の友人の場合は、その手当が体質によく合ったものだろうと思われます。」
「馬一匹どれ位するものでございましょうか。」
「さあ……。そしてまた、どんな馬でもいいというのではないかも知れません。」
「ではお医者に尋ねてみましょうかしら。」
「そうですね。然しそれにも及ばないでしょう。この頃だいぶお宜ろしいようではありませんか。」
「ええ、いくらか宜ろしいようにも思われますのよ、熱もずっと下っていますし、痰も殆んど出ませんから。」
「屹度よくなりますよ。河野君は頭がしっかりしていますし、少しの病気位は頭の力で治るものです。」
「ですけれど、この頃何だか苛ら苛らしてる様子が見えますので、それが私心配で……。そして追々寒くもなりますから。」

 会話はそれきり再び馬のことには戻ってゆかなかった。然し彼はしきりにそれが気になり出した。全く思いも寄らぬ馬というものが、突然其処に現われてきて、自分の病気に重大な関係があるらしい暗示を残したまま、遠くへ去ってしまったのである。彼はそのことをあれこれと推測しながら、一方では妻と瀬川との会話に耳を傾けていた。然し会話は途切れ勝ちに種々のことに飛んでいって、いつまでたっても馬の上に戻って来なかった。彼はそのままじっとしているのが苦しくなった。然し今急に眼が覚めたような風を装うのも、何となく憚られた。
 隣室の会話はなお続いていった。
「……実際ここは気持ちが宜ろしいですね。こんな処に居れば病気なんか自然に治ってしまいます。私も、伺う度毎《たんび》に余り長くは御邪魔すまいと思いながら、来てしまうとつい泊っていったりなんかして、お見舞に上るのだか遊びに来るのだか、自分でも分らない位です。」
「初めからお遊びのつもりでいらっしゃればいいではございませんか。こちらへ越して来てから、訪ねて下さるお友達も少いので、河野も非常に淋しがっております。私もあなたに来て頂くと、何だか力強いような気が致しますの。あなたがお帰りになると、河野はいつも黙り込んで淋しそうにしていますし、私はまた何となく頼り無いような気持ちになって、家の中が急に陰気になりますのよ。」
「それでは折角御伺いしても、差引零になるわけですね。」
「ええ、だからなるべく長くいて下さらなくてはいけませんわ。今日もお泊りなすって宜ろしいんでございましょう。」
「そうですね。河野君の気持ちがよかったら……。」
「是非そうして下さいね、河野も喜ぶでしょうから。この節では、病気が少しよくなったようですから、早く元の身体になって長い物を一つ書きたいと、始終申して居りますの。いくらとめても、原稿用紙を枕頭から離さないで、何か二三行書いては考えていますのよ。でもやはり頭に力がないと見えて、その紙を破きすててはまた寝てしまいます。」
「今からそんな無理をしてはいけませんね。」
「ですけれど余り気に逆っても悪いと思いまして、私は傍についていながらどうしていいか困ってしまいますの。」
「それはお困りでしょう。私からも、暫くは静にしているように勧めてみましょうか。」
「ええどうぞ。」
「そして河野君はやはり小説でも書こうとしているのですか。」
「何だか感想みたいなものですの。書いてはすぐに破きすてますから、私にはよく分りませんけれど、つぎ合わして読めるようなものは、私そっとしま
次へ
全8ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング