瀬川が彼の方を覗き込んでいた。彼は苦笑しながら答えた。
「うむ。今日はどうしたのか妙に眠い。」
「ではゆっくりお眠りなすったらどう?」と妻が云った。「その間瀬川さんには海の方でも散歩して来て頂いたら……。私は晩の仕度を整えておきますから。」
「それがいい。」と彼は云った。「今晩は何か少し御馳走をおしよ。瀬川君、失礼だが僕は少し眠るから、海の方でも歩いて来ない? 晩秋の海っていいもんだよ。」
「僕もそう思ってた所だ。では夕方また此処《ここ》で、三人落ち会うとするかね。……此の次は君も一緒に散歩出来るといいね。」
瀬川が海の方へ出て行くと、彼は横に寝返りをして、襖の紙の枇杷色をじっと眺めていた。すると妻がその顔を覗き込んで云った。
「あなた、今日はどうしてそうお眠いんでしょう?」
彼は妻の顔をちらと眺めて答えた。
「なに、別に眠かないが、少し一人で居たかったからああ云ったんだ。」
「それなら初めからそう被仰《おっしゃ》ればいいのに。瀬川さんに遠慮なんかいらないじゃありませんか。」
「然し折角来てくれたんだから、そうもいかないさ。それはそうと、今晩何か御馳走をおしよ。」
「ええ。」
彼は暫く考えてから遂に云い出してみた。
「さっき妙な夢を見たよ。」
「どんな?」
「何でもね、広い野原だ。いつまで行っても野原ばかりで、畑も丘も見えない。僕はその中を非常な速さで横ぎっていった。まるで汽車にでも乗ってるようで、とても人間の足の速さではない。その上自分の身体《からだ》はじっとしていて、ただ周囲の景色だけがずんずん後に飛んでゆくんだ。変だなと思うと、その時初めて気が付いた、僕は馬に乗っていたんだ。素敵に立派な馬でね、その馳け方の速いったらないんだ。得意になって鞭をあてていると、どうも様子が変なので、そっと下を覗いてみた。するとどうだろう、馬は僕を乗せて空中を翔《かけ》っているんだ。天馬空を翔るとはあのことだね。所がそれに気付くと同時に、僕は頭がぐらぐらとして、真逆様に地面に落ちてしまった。」
「それから?」
「落ちると同時に眼が覚めてしまった。」
「変な夢ね。」
「全く変な夢だよ。」
「おかしいわ。」
「何が?」
「実はさっき瀬川さんから馬について妙な話を聞いたのよ。」
「うむ。」
「瀬川さんのお友達のまたお友達ですって、肺結核で長く患っていらしたが、どんな手当をしてもよくならないで、だんだん悪くなって、しまいには入院なすったそうですの。何でも長崎とか云っていらしたわ。そして愈々もう手当のしようもないという時になって、其処の院長さんが、最後の試みに或る療法をされると、それですっかり直っておしまいなすったそうです。その療法というのは、馬の脊髄を取って注射するんですって。そういう説は前からあるにはあったんだそうですが、そのためにわざわざ馬一匹殺さなければならないから、実際には余り応用されたことがないとかいうお話ですわ。」
「なんだつまらない。」
「でも本当に利目が確かでしたら……。」
「僕にやったらどうかっていうんだろう。」
「ええ、余り長くお悪いようですと。」
「然し実際効能が確かなら、今迄に随分行われてなけりゃならない筈じゃないか。わざわざ馬を殺さなくても、屠殺所でそれを取ったらいいわけだからね。」
「私も変に思ったんですが、瀬川さんのお話は全く本当のことだそうですから。」
「で瀬川君は何と云っていた。」
「別に何とも仰言らないで、ただそういうことがあるといって、御自分でも半信半疑で被居るようでしたの。」
わざわざ夢まで拵え出してそれとなく尋ねてみた「馬の話」が、案外つまらない内容だったので、彼は心構えをしていた感情のやり場に困った。そして妻の顔をじっと眺めた。
「お前は瀬川君にかつがれたんじゃない!」
「いいえ、全く本当らしいお話でしたのよ、でもなおも一度お尋ねしてみましょうか。」
「なにいいさ、そんな話は。」
暫く沈黙が続いた。
「では私、」と妻はふと思い出したように云った、「仕度をして参りますわ。御用があったら呼んで下さいね。」
彼は黙って首肯《うなず》いた。
一人になると彼は、暫く眼をつぶっていたが、やがて身体を少しずらして、縁側の障子を眺めた。西に傾いた日の光りが、障子の下の方三分の一ばかりを明るく照していた。そして節くれ立った木の枝が一本淡い影を投じて、それに一羽の小鳥がとまっていた。それらのものに彼はいつのまにか見覚えが出来ていた。庭の片隅にある梅の枝と、日に当ってる雀であった。彼はそれにちっと眸を定めた。雀はいつまでたっても動かなかった。可愛いい小首を傾げたり翼を動かしたりすることを期待してる彼の眼は、殆んど自棄的な気長さを強いられた。凡てはただ事もない明るい静けさのみだった。梅の枝の影が障子の上を静に移ってゆく
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