奮さして許してくれ。」彼が眼を開くと、瀬川は眼を潤ましていた。二人は長く黙っていた。
翌日瀬川が帰っていった後、彼は一人で考えた。「昨日一日を、妻と二人で静に送る方がよかったか、或は瀬川と珍らしく緊張した一晩を過した方がよかったか?」肺を病んで長らく転地先に無聊な生を送っている彼にとっては、その一日一日を如何に暮すべきかということは重大な問題となっていた。瀬川が帰っていった後、彼は前のような数行を認めたのである。
その時のことを思い浮べると、彼は何とも云えない淋しい気になった。隣室の会話はなお途切れ勝ちに続いていた。然しもうそれに耳を傾けるのも億劫になってきた。じっと眠ったふりをしているのが堪えられなくなった。「どうして自分は妻と瀬川との話を盗み聞きする気になったろう?」とも自ら反問してみた。すると「馬」ということが頭に浮んできた。訳の分らぬもどかしさが胸に感じられた。
彼は寝返りをした。
その音をききつけてか、妻はすぐにやって来た。
「あなた、あなた、お眼覚めなすったの? 今瀬川さんが来て被居してよ。」と彼女は云った。
彼はその声に初めてはっきり眼を覚ましたような様子をした。
「そう、瀬川君が?」
「ええ、先刻《さっき》から来ていらしたけれど、あなたがよく眠っていられるものですから……。」
彼が何とも答えないうちに、瀬川はもう其処にはいって来た。
「やあ、随分よく眠るね。」
「だいぶ前から来てたのかい。」
「いや、つい今しがただったが。」
彼は瀬川の顔をじっと見た。健康そうな顔の色、綺麗に分けた頭髪、大胆でどこか皮肉らしい眼付、頑丈な鼻、剃り立ての蒼みがかった※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]。彼は其処に身を起そうとした。
「そのままがいいよ。」と瀬川は云った。
彼はまた頭を枕につけた。何で起き上ろうとしたのか、自分にも分らなかった。そして心の底にうろたえてる何物かを感じた。
「気分はどうだい?」
「大変いい。」と彼は答えた。「暖い時なら少し位起き上っていいと医者も云ってる位だから。」
「然し今が一番大事な時だよ。」
「だから用心してるよ。」
「どうだか。」
「実際だよ。」
「そうだね、原稿を書いたりなんかしてさ。」
「ああ、そうか。あんなものは君、退屈凌ぎに三四行ずつ書きちらしてはそのまま破き捨てるんだから、身体に障りはしないさ。」
「然
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