し君の初めのつもりでは、少し長いものを書くつもりでペンを執るんだろう。そういう頭の努力がいけないんだよ。」
「君の云う意味は僕にも分る。未来が大事だから現在を用心しろというんだろう。それはそうなくてはならないことだ。然し長く病気をして寝ていると、その現在を用心するということが、違った意味に感じられてくる。未来のために現在のことは多少犠牲にしなければいけないというのが、健康な時の解釈だ。然し病んでいる時には、未来のために現在のことを出来るだけ大切にしなければいけない、というような気持ちになる。人の心のうちには、何かが絶えず根を下している。その根を下ろしてゆくものを注意深く見守っていなければ、いい未来はやって来るものではない。僕は此処に転地して来てから、毎日庭の方をばかり、庭の些細な変化を、自然に眺め暮したものだ。すると或る朝、今まで真黒な裸の土だと思っていた処が、一面に緑色の苔に蔽われてるのを見出して、自ら驚いたことがある。何にもないと思っていた処に、何事も行われていないと思ってるうちに、実は苔が次第に根を下して繁殖していたんだ。それに気付いた時には、もうどうにもならないほど苔が一面に生じていた。僕達の心にもそういうことが行われるものだ。知らず識らずのうちに種々なものが根を下してゆく。それを気付く時にはもうどうにも出来ないほどその根が深くなっている。切迫《せっぱ》つまったはめというのは、そういう状態の時をいうのだ。そしてその推移がひそかに行わるれば行われるほど、人の注意を逃れることが多ければ多いほど、益々危険が大きくなる。だから未来をよくせんがためには、現在を、殆んど無意識的に行われる現在の心の推移を、深く注意していなければいけない。現在を軽蔑してはいけない。うっかりしてはいけない。馬車馬みたいに遠くをばかり眺めて、足下をなおざりにしながら馳け出してはいけない。そういう意味で僕は現在を大事にすることを知った。そしてそのために、現在の気持ちを時々紙に無駄書したくなるんだ。まだ僕は頭に力がなくて、はっきりまとまったものを書けないのは遺憾だが、無駄書でもすることによって、その時々の感情は何かはっきりしたもので裏付けられるような気がする。僕が書くのはそういう風なもので、何も病中でいながら創作をやろうとあせってるのではない。」
話しているうちに彼は何だか「惨めな」とでも形容し
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