た危険な二週間、その間のことを考えた。殆んど看病ばかりに日を暮している一彼女、その彼女の肉体の忘られたような性的生活、……そして今、自ら知らずして覗き出したその肉体の魅力。彼は何とも云えない淋しい気になって云った。
「もうお寝みよ。」
「ええ。」
すぐ彼の前に展《の》べられた妻の寝床から、彼は反対の方に寝返りをした。眠ろうと思って眼をつぶったが、頭のしんが妙に冴え返って眠れなかった。
「瀬川君は?」と彼はふと尋ねてみた。
「もうお寝《やす》みなすったわ。」と後ろで妻の答える声がした。
彼はまた眼を開いて、一日のことをぼんやり思い出した。そうしてるうちに、襖の笹の葉模様を見つめている眼の方に注意が向いてきた。その襖を距て、六畳の一室を距てて、安らかに眠ってる瀬川の様が頭に浮んできた。するとそれがしきりに気になり出した。彼は深く息をして、左手を額にあてた。――瀬川がこの同じ屋根の下に眠ってるのが、どうしてこう気にかかるんだろう。瀬川が安らかに眠ってるのが、どうして自分の神経に触るんだろう。――そう考えれば考えるほど、益々彼は眠れなくなった。けれども頭の奥には、軽い痛みをさえ覚えるほどの疲労が蔽いかぶさっていた。
彼は、妄念を吐き出そうとするように深く息をした。そして、肩をすぼめて寝返りをした。すぐ眼の前で、こちらを向いて寝ている妻が、大きく眼を開いていた。
「おやすみになれないんでしたら、少し頭でも揉んであげましょうか。」
「いや、すぐ眠れそうだ。早く眠りっこをしよう。」
「ええ。」と答えて彼女は眼で微笑《ほほえ》んだ。
彼はそっと蒲団で眼を隠した。淋しい涙が眼瞼を溢れてきた。そしていつまでも続いた涙が漸く乾きかける頃には、彼は我知らずうとうととしていた。
翌朝彼はいつになく遅く眼を覚した。朝日の光りが斜に、障子を隈なく照していた。その障子を開かせると、露と霜とに濡れた爽かな庭が、すぐ眼の前にあった。彼はそっと床の上に上半身を起して、庭の方へ向き直った。弾力性を帯びたように思われる黒い大地が、彼の心を惹きつけた。素足のままその上を歩いてみたい欲望が、胸の底からこみ上げてきた。もうだいぶ長く土を踏まないなという考えが、根こぎにせられたような佗しさを彼の心に伝えた。彼は食い入るような執拗な眼を、じっと地面に据えていた。
その時、瀬川が木戸口から庭へはいって来た
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