この次にしよう。」と瀬川は答えた。
 彼は黙って碁盤を側《わき》に押しやった。屈辱とも憤激とも云えないような感慨が心のうちに乱れた。
「君は卑怯だ。」と彼は口に出して云った。
「いや、長く打たないせいか、どうも調子が変だ。」と瀬川は別な答え方をした。
「あなた、もう横におなりなさいな。」と妻が云った。
 彼は床の中に身体を伸した。枕に頭をつけると、顔だけが妙にほてって、身体に不気味な悪寒を感じた。訳の分らない涙が眼にたまってきた。
 彼はそれから殆ど口を利かなかった。その上もう九時を過ぎていた。余り病人を疲らしてはいけないというので、皆寝ることにした。それに、彼はいつも晩早く寝て朝早く眼を覚ます習慣になっていた。
「電気を暫く消してくれないか、何だか妙に眩《まぶ》しいから。」と彼は妻に云った。
 静かな柔かな闇に包まれると、神経が穏かに和らいで、彼は銷沈しきった気分に浸されていった。骨の髄まで妙に力がなくて、手足がばらばらになったような深い疲れを感じた。そして意識が次第に蝕されてゆくような、何もかも投り出した安らかな昏迷のうちに、彼はうとうとと眠りかけた。
 どれ位時間がたったか彼は覚えなかった。何かの気配《けはい》にふと眼を開くと、室には明るく電灯がともされて、妻が一人枕頭に坐っていた。
「お眠りになって?」と彼女は云った。
「うむ。」と答えたまま、彼はぼんやり妻の顔を眺めていた。
 暫くして彼女はまた云った。
「何だか額がお熱いようで心配だから、熱を測ってごらんなさらない。」
「うむ。」と彼はまだぼんやりして答えた。
「碁なんかなすったから、また熱が出たのじゃないでしょうか。」
 然し熱を測ると、六度八分きりなかった。彼女は検温器を電気にかざしながら微笑《ほほえ》んだ。眉根に小さな皺を拵らえて軽い憂いを額に漂わしながら、口元の筋肉を弛めて白い歯並をちらと覗かした。その心配と安堵とを一緒にした彼女を見て、彼は妻を美しいものに思った。
「何でそう私の顔を見て被居《いらっしゃ》るの?」と彼女は云った。「御気分でもお悪いの? お疲れなすったのでしょう。お眠りになれて? ぐっすりお眠りなさるといいわ。」
 彼は何とも答えなかった。彼女の顔から眼を外らして、天井の隅にぼんやり視線を投げながら、妻の美しい肉体のことを想った。転地してから二ヶ月、最近感冒から気管支に加答児を起し
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