の勝負に求めた。「君がやらないなら僕一人でやる。」とも彼は云った。
 妻と瀬川とは仕方なしに彼の言葉に従った。その上、雨戸をしめ切った室の中は、火鉢に沸き立っている鉄瓶の湯気で暖くなっていた。彼は床の上に起き上り、高く積んだ蒲団に背中でよりかかって、碁盤を前にした。彼と瀬川とはどちらも笊碁ではあるが、互先のいい相手だった。
 彼は黙《だま》って石を下した。何だか頭のしんに力がなく、注意が盤面にぴたりとはまらなかった。然しやってるうちに、後頭部の方から熱っぽい興奮が伝わってきて、次第に気分が戦に統一されてきた。そして自ら知らないまに三十|目《もく》ばかりの勝利を得た。
「病気して強くなったね。」と瀬川は云った。
 所が二度目になると、彼の石の形勢がひどく悪かった。方々に雑石が孤立するようになった。彼はじっと盤面を見つめて、頽勢を挽回すべき血路を探し求めた。然しあせればあせるほど、頭の調子が妙にうわずって、肝心な所で行きづまってしまった。敵の陣形は如何にも横風《おうふう》で、衝くべき虚がいくらもあるように思われたが、実際石を下してみると、つまらない所で蹉跌したりした。そのうちに彼は、自分の中央の大石が、先手の一著で死ぬ形になっているのを見出した。然しその時、右下隅の攻め合いに彼はどうしても手をぬくことが出来なかった。どうにでもなれ! と彼は思った。そして愈々隅の攻め合いに負けてしまっても、中央の大石をそのまま放って、他の所に石を下した。中央の石になるべく触れないようにと瀬川が遠慮してるのが、はっきり[#「はっきり」は底本では「はっり」]分ってきた。その石を取られては、目もあてられない惨敗に終るのは明かだった。もしその石が活きても、彼の方に勝目はなかった。
 もう終りに近づいた頃、彼はどうしても中央に石を下さなければならない手順となった。そして黙ったままその大石に一著を補って活《いき》とした。瀬川が素知らぬ風を装ってることが、ちらと動いた頬の筋肉で彼に感じられた。
 彼の方が十七目負けだった。
「此度は勝負だ。」と彼は云った。
 瀬川は戦争を避けよう避けようとするような石の下し方をした。彼がいくら無理な攻勢に出ていっても、瀬川は地域に多少の犠牲を払ってまで戦争を避けた。そして平凡のうちに彼の方が勝となった。
「も一番やろう。」と彼は云った。
「いやもう止《よ》そうや。また
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