めん》にひろがっていて、遠《とお》くの下の方で雷《かみなり》が鳴《な》るような音がしていました。雲《くも》よりも高い山だったのでした。それでも、向《むこ》うにはさらに高い山がつき立っていました。
「あの山へ行こう」と王子はいいました。
王子はただ高いところへあがって行くことよりほかには、なにも考えてはいませんでした。この老人《ろうじん》に負《ま》けてなるものか、どんな高いところへでもあがってやる、という気でいっぱいになっていました。そして二、三度高い方の山へと、老人《ろうじん》につれられてあがってゆきました。
ある山の上にくると、老人《ろうじん》はそこにとんと杖《つえ》をついていいました。
「お前の強情《ごうじょう》なのにはわしも呆《あき》れた。これが世界で一番高い山だ。もう世界中でこれより高いところはない。ここまでくればお前も本望《ほんもう》だろう。これからまた下へおりて行くがいい。はじめからの約束《やくそく》だから、わしはもう知らない。これでお別《わか》れだ」
王子が眼《め》をあげて見ると、もう老人《ろうじん》の姿《すがた》は消《き》えてしまっていました。王子はぼんやりあたりを見|廻《まわ》しました。頭《あたま》の上には、澄《す》みきった大空と太陽《たいよう》とがあるばかりでした。立っているところは、つき立った岩の上で、眼《め》もくらむほど下の方に、白雲《しろくも》と黒雲《くろくも》とが湧《わ》き立って、なにも見えませんでした。冷《つめ》たい風が吹《ふ》きつけてきて、今にも大嵐《おおあらし》になりそうでした。王子は腕《うで》を組《く》んで、岩《いわ》の上に座《すわ》りました。いつまでもじっと我慢《がまん》していました。しかし、そのうちに、だんだん恐《おそろ》しくなってきました。風が激《はげ》しくなり、足下《あしもと》の雲《くも》がむくむくと湧《わ》き立って、遙《はる》か下の方に雷《かみなり》の音まで響《ひび》きました。王子はそっと下の方を覗《のぞ》いてみました。
屏風《びょうぶ》のようにつき立った断崖《きりぎし》で、匐《は》いおりて行くなどということはとうていできませんでした。
王子は立ちあがりました。そして考えました。
「あの老人《ろうじん》に助《たす》けを求《もと》めたくはない。なあに、命《いのち》がけでおりてみせる。僕《ぼく》が死《し》ぬか、それとも、うち勝《か》つかだ」
王子は石を一つ拾《ひろ》って、それを力まかせに投《な》げてみました。石は遙《はる》か下の方の雲《くも》に巻《ま》きこまれたまま、なんの響《ひび》きも返《かえ》しませんでした。
「よしッ!」
と王子はいいました。
そして、岩《いわ》の上から真逆《まっさか》さまに、むくむくとしてる雲《くも》のなかをめがけて、力一ぱいに飛《と》びおりました。
……………………………………………………
王子は、はっとして我《われ》に返《かえ》りました。
見ると、自分は城《しろ》の庭《にわ》の芝生《しばふ》の上に寝《ね》ころんでるのでした。からだ中|汗《あせ》ぐっしょりになって胸《むね》が高く動悸《どうき》していました。
しかし、いくら考えてみても、さっきまでのことが夢《ゆめ》であるかまたは本当《ほんとう》であるか、どうもはっきりしませんでした。本当《ほんとう》だとするには、あまり不思議《ふしぎ》きわまることでしたし、夢《ゆめ》だとするには、あまりはっきりしすぎていました。
「どちらでも構《かま》うものか」と王子は考えました。そしてまたこう考えました。「高いところへあがるには、まず第《だい》一に、また下へおりられるような道《みち》をこしらえておかなければいけない」
王子はそのことを国王へ話しました。
国王はたいへん喜《よろこ》んで、それからは王子を自由にさせました。
王子はやはり高いところへあがるのがすきでしたが、ちゃんとその下《お》り道《みち》をこしらえてからあがるので、少しも危《あぶな》いことはありませんでした。
……………………………………………………
この王子は後《のち》に、世界で一番|強《つよ》い、一番|賢《かしこ》い王様になりました。
なぜなら、どんな高いところへあがっても平気なほどしっかりした気象《きしょう》でしたから、一番|強《つよ》かったのですし、またちゃんと下《お》り道《みち》をこしらえておくほど用心深《ようじんぶか》かったから、一番|賢《かしこ》いのでした。
そして王子は一生のあいだ、あの黒《くろ》い着物《きもの》の白髯《はくぜん》の老人《ろうじん》を、自分の守護神《まもりがみ》として祭《まつ》りました。
底本:「天狗笑い」晶文社
1978(昭和53)年4月15日発行
入力:田中敬三
校正:川山隆
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