、せいぜい牛乳のお料理だけしか上らないし、このお料理がまた厄介なのだ。そのほか、こまこました御用がたくさんある。お姉さまの食器やなにかは、用心のため消毒しなければならない。野島先生が週に二回いらして、お姉さまにいろいろな注射をなさる。時には見舞客もある。お母さまは体が肥っていて、あまりお動きなさらないので、わたしがくるくる働くのである。
 お三時に牛乳を飲んでいると、お姉さまはふと手を休めて、お言いなさった。
「この牛乳、少し馬くさくありませんか。」
 わたしはくくくと笑った。ところが、お母さまは真面目にお答えなさる。
「そうねえ、馬くさいのかしら。」
 お姉さまも真面目に考えていらっしゃる。
 わたしは笑いを殺して言った。
「だって、馬に乗せていらしたんですもの。お嫌だったら、わたくし、これから取りに行っても宜しいわ。」
「いいえ、いいのよ。」お姉さまは妙にきつくお言いなさった。「ただ、馬の匂いがするような気がしただけ。わたくしなら、構わないわ。」
 そのような、いろいろなことがあったが、少し不気味なことが起ってきた。
 お姉さまは、夕食後はやくお休みになる。お母さまは、たいてい、毛糸の球をころがして、お姉さまの冬のスェーターなど編んでいらっしゃる。わたしは読書だ。お姉さまにはあまり読書はいけないのだけれど、退屈だろうからって、川井の伯父さまから、セークスピアの翻訳全集と世界童話大系と二揃い、たいへん嵩張った書物が送ってきた。伯父さまが誰かに相談なさった結果だろうと思うけれど、わたしにはそんなもの面白くなく、文学雑誌など買ってきて読むことにしていた。けれども、夜分、電気の光度が弱いので、時折はセークスピヤなど朗読させられることがある。面倒くさい台詞などはとばして、いい加減に読んでゆく。お母さまはいっこう平気でいらっしゃるけれど、お姉さまは熱心に聞いておいでになるとみえて、少し台詞をとばすと、ちょっと、そこんとこ変ね、と突っ込みなさる。わたしは首を縮こめる。
 そのようにして、或る晩、「マクベス」を読んでいると、お姉さまが低い声でお言いなさった。
「ちょっと。」
 台詞をとばした筈ではなかったがと、お姉さまの方を見ると、お姉さまは、宙に眼を据えて、何かじっと聴き入っておいでになる。いつまでもそのままだ。お母さままで、何か耳を澄していらっしゃるらしい。
 お姉さまはふいに咳をなさった。
「馬の駆けるような音がしたんだけれど……。」囁くようなお声だ。
 お母さまは編物の手を休めて、まだ耳を傾けていらっしゃる。
 虫の声がするきりで、しいんとした夜だった。わたしもちょっと変な気がして、もう読むのをやめた。
 そういうことが、時々起った。お姉さまの声はさまざまだった。
「ちょっと。」
「あ。」
「ほら。」
「ね。」
 突然、眼を宙に据えて、戸外の気配に聴き入りなさる。お母さままで首をかしげて、じっと聴いていらっしゃる。わたしには何にも聞えないのだ。あとでお姉さまに伺うと、遠くの林の中を馬が駆けていたり、家のまわりを馬が歩いていたり、裏口に馬がふーっと鼻息を吐きかけたり、みんな馬のことばかりだった。
 どうも少しおかしい。それに、お姉さまは、頬の赤みは増したようだし、深々とした黒目の色がいっそう深くなったようだし、前よりも鼻筋が通って皮膚が薄くなったようだし、お美しさに病的な感じが濃くなっていた。お咳は少し間遠になったが強くなり、お熱は平均すれば前と同じく七度二三分だが高低が多くなり、お食慾は減ってくるようだった。野島先生も前々から、暖いうち海岸へでもいらした方がよろしかろうと勧めていらしたし、川井の伯父さまから丁度、湘南の或る療養所に室の予約が出来たことを知らせて来た。
 お母さまとお姉さまとは、なにか御相談なすっているらしかった。
「でも、来て下さるかしら、わたくしがこんな病気なのに。」
「お招きすれば、きっと来て下さるよ。御一緒に食事をするわけではないのだから。」
「来て下さるとは思いますけれど、お招きして断られたら恥ですもの。」
 なんのことかと尋ねてみたら、ここを引き上げる前、お世話になった菊地さん御夫婦といっしょに、小野田さんも、お食事に招きたいという話だった。わたしは呆れた。
「そんなことなら、わたくしが内々お聞きしてみましょう。」
 わたしは心と逆なことを言ってしまった。小野田さんはいったい失礼な人だとわたしは思っていたのである。自分勝手によその牛乳を取りに行ったり、わたしの楽しみを奪い取ったり、裏口だけで一度も上にあがらなかったり、物知らずにも程がある。その上、馬のことで、お姉さまやお母さまの神経をどれほど悩ましてるか知れない。お食事に招くことなんか、そもそもおかしい。わたしが出かけていって、ここを引き上げることだけを、きっぱりお知らせしよう。正式に作法通りに、御通知の挨拶だけしよう。どんな顔をなさるか。それに、あのひとのお住居も拝見してやろう。
 わたしはひとり心の中で決心した。

 思いきり派手なドレスを着、髪を風になびかしてわたしは出かけて行った。
 小野田さんの居所は、近藤別邸となっていたが、それはすぐに分った。堂々たる洋風の構えで、白樺や落葉松の植込みがあり、自動車置場らしいものまであった。窓はすべて閉め切って、カーテンが下してあり、低い土手囲いの中央にある入口には、頑丈な木格子の門扉が閉鎖されていた。様子がおかしいので、横手へ回ってゆくと、野薔薇のからみついた門柱が二本立っていて、奥まで見通しで、別棟の平家があった。わたしはちょっと躊躇した後、はいっていった。馬の蹄の跡で道はでこぼこだ。
 いやにしいんとしているその平家の、向う側は、水音がしていた。わたしは案内を乞うのをやめて、水音のする方へ行ってみた。
 見ると、上半身裸体の男が、大きな馬盥の水で馬を洗っていた。小野田さんがいつも乗ってる栗毛の馬だ。わたしは黙ったまま佇んだ。男は馬の向う側に回った。顔を見合せると、それが小野田さんだった。
「ほう、秋子さんか。どうしたんです。」
 わたしは恥しくなった。相手は半裸体なのだ。ただ微笑した。
「これは思いがけなかった。よく来ましたね。」
「ちょっと、通りかかったものですから……。」出たらめを言った。
「覗いてみたんですか。この通り、馬丁修業です。待って下さい、すぐ済むから。」
 小野田さんは半裸体を少しも気にしていないらしいので、わたしも気にならなくなって、近くへ行った。それでも、白い胸の真中に黒い長い毛が粗らに生えてるのが、眼について、わたしは馬の方ばかり見た。
 盥の水を馬の背や腹や足にかけて、大きなブラシでこするのである。栗色の毛並がつやつやと輝やくようで、見違えるように美しくなってゆく。馬は木に繋がれたまま、上唇をあげ鼻に皺よせ、ふふふと笑った。
「こいつ、あなたを覚えていて、笑ってますよ。なんしろ、駆けてる馬の鼻っ先に飛び出してくる、勇敢なお嬢さんだからな。」
 どうも、いけない、とわたしは思った。気を許しては負けだ。大きく息をして言った。
「ただ、通りがかりにお寄りしただけですから、ゆっくりお洗い下さい。お家にはあがっておられませんの、あなたとおんなじに。」
 小野田さんはじろりとわたしを見て、ちょっと小首をかしげた。それから笑った。
「家の中より外の方がいいですとも。殊に僕なんか、あちらの洋間には住まずに、こちらに居候して、馬と同居だから。」
 小野田さんは丹念に馬を洗いながら、馬のことを話した。馬は犬よりも猫よりも、もっと人間になずみ、人間の気持ちが分り、人間に忠実であると、戦地の実例など挙げた。
「でも、匂いがしますでしょう。」とわたしは言ってやった。「こないだの牛乳も、馬くさかったようですの。」
「ほう、それは素晴らしい。そんな牛乳なら、僕も御馳走になりたかった。」
「馬くさい牛乳を飲んでいますと、馬の夢をよく見ます。眼がさめていても、馬の駆ける音が聞えたり、馬の鼻息が聞えたり、馬が迎えに来たり……。」
 小野田さんが馬の背に手を休めて、わたしの方をじっと見ているので、わたしは言いやめて、唇をかんだ。どうしてそんなことを言い出したのか、自分でもふしぎだった。
「それから、どんなことがありますか。」
 わたしはもう黙っていた。
「くわしく話してごらんなさい。」
「いいえ、それっきりです。」強く言った。
 小野田さんはしばし空を見上げた。
「それは、嘘でしょう。あなたじゃない。たぶん、夏子さんかも知れない。」
 わたしは頬がぴくぴく震えるのを、自分でも感じた。
 小野田さんはひどく真面目になり、怒ってるような調子になった。
「冗談じゃない。そんな錯覚が、もしあったら、僕がぶち壊してやります。戦地でなら、錯覚もまだ許されます。馬が通ってゆく。真暗な夜、一列になって、足音もなく、ただ姿だけ、影のように通ってゆく。際限もなく、長い列をなして、闇の中を通ってゆく。そんなのを見たという兵がいる。そういう錯覚も、戦地ではあり得るかも知れません。然しそれも、ほんとに馬を愛しないから起ることだ。僕はここに来て、別荘番の百姓にたのんで、馬を借りてきて貰いました。この家には、厩舎はあるが、馬はいない。この馬は、僕がここにいる間、借りてるんです。なぜそんなことをしたか。錯覚を、あらゆる錯覚を、追っ払うためです。錯覚を追い払うばかりか、新たな勇気が出てくる。乗馬は、颯爽として、男性的で、直情径行で、ひねくれたくよくよしたものを排除する。つまり、真直に駆けぬける。これが大切です。秋子さんも馬に乗りませんか。僕が教えてあげるから。」
 怒ってるのでもなさそうだ。わたしは口籠った。
「乗りたいんですけれど……。」
「そんなら、なにも、遠慮することはないでしょう。」
「でも、もう日がないんですもの。」
 小野田さんは変な顔をした。
「実は、近いうちに、ここを引き上げることになっています。」
「みなさんで……。」
「ええ。東京に帰ります。」
 小野田さんは眼をぱちりとさして、黙りこみ、やがて思い出したように、ブラシでまた馬を洗い始めた。
「そうですか。そんなら、明日にでもゆっくり伺いましょう。」
 予期しない結果になった。わたしの初めの心づもりはもう崩れてしまっていた。どうでもよいと思った。わたしはすぐに辞し去った。

 翌日の午後二時頃、小野田さんはやって来た、馬には乗らず、黒い背広服に派手な博多織のネクタイをしめ、牛乳の一升瓶を手にさげていた。いつも前回に空瓶を持って帰り、牛乳をつめて届けてくれることになってるのである。
 小野田さんが来る前、午前中、ちょっと変なことがあった。お姉さまがまた、小野田さんの来かたが遅いのを気になさってる御様子なので、わたしは、遅くなってもきっといらっしゃると断言して、もし違ったら大雷を鳴らしてみせると言った。わたしは前日に小野田さんのところへ行ったことを黙っていたのである。別に隠すつもりはなかったけれど、すっかり思惑ちがいになったことが、自分ながら惨めだったのだ。
 お姉さまはじっとわたしの顔を見ていらしたが、ふいに、雷が鳴るまでここから発つのはやめたいと、子供のようなことをお言いなさる。この頃ちっとも雷が鳴らなかった。もし雷が鳴ったら、秋子さん、庭の木に落してね、と真面目にお言いなさる。雷が落ちた跡には穴があいて、穴の底に美しい珠が残っている、とそこまでは昔噺だが、その珠を見つければわたくしの病気も直るけれど、珠を見つけなければこの病気はとても直らぬ、などと、それが冗談らしくもないのである。
 それからどういう話の続きか、わたしが席を立ってる間に、お母さまとお姉さまとは、小野田さんの馬はもと軍馬だったかどうかと、つまらぬことを長々と話しあっていらした。お母さまは、軍馬ではないだろうと仰言る。お姉さまは、軍馬だったろうと仰言る。明け方、あの馬が誰も乗せないで独りで、どこまでもどこまでも走ってゆくのが見えた。森をぬけ、谷を越え、山を登って、走ってゆくのがいつまでも見えた。あん
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング