牛乳と馬
豊島与志雄
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(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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橋のところで、わたしは休んだ。疲れたわけではないが、牛乳の一升瓶をぶらさげてる、その瓶容れの藁編みの紐が、掌にくい入って痛かった。どうせ急ぐこともない。牧場の前の茶店まで、家から一キロ半ほどの道を、散歩のつもりで往復するのである。九月にはいると、この高原はもうすっかり秋の気分。咲き乱れた女郎花にまじって、色とりどりの秋草が花を開きかけている。避暑客も少くなり、道行く人もあまりない。あたりの空気がすっきりした気持ちだ。
途中に、小川があって、木の橋がかかっていた。その橋から川の中を覗くのが、とても楽しかった。川の水は冷たく、清冽とも言えるほど澄みきって、藻草をそよがせながら、深々と流れている。きれいな魚もいるに違いない。その一匹でも見つけたい、せめて小蝦でも、鮠の子でも、と思って覗くのだけれど、何も見えない。それでも、藻の間にちらちら影がさしたり、小石の上にちらと光が流れたりするのが、面白い。それほどきれいな水だった。
その時も、我を忘れて、橋の欄干から身を乗り出し、川の中を一心に覗いていた。すると、突然、馬の足音が聞えた。駆けてくるのだ。すぐそばに、身近に、ぱかっぱかっと駆けてくる。振り返ると、もう馬は橋にさしかかり、わたしの方へ真直に向ってくる。よける隙もない。あ、と声を出すと同時に息をつめ、橋の反対側へ飛びのいたが、馬はそっちへ来るし、わたしはまたこちらへ飛びのいたが、危い、と思うと共にまたあちらへ飛びのいた。とたんに、真黒な風のようなものが身を掠め、わたしは欄干にすがりついて屈みこんだ。
つぶっていた眼を開くと、橋を渡りきったすぐそこに、馬は止っていて、男のひとが馬から降り、手綱を引っぱって戻ってきた。わたしは少し極りわるく、立ち上って、無意味にお時儀をした。
「怪我はなかったでしょうね。」
わたしは無言で頭を振った。
「動かないでおればいいんですよ。いきなり、道の真中に飛び出してくるもんだから、こっちでびっくりしちゃった。」
ずいぶんぞんざいな言葉つきだ。
「あ、こいつあいけない。」
言われてからわたしも気づいた。用心のため、橋の欄干から少し離して、地面に立てて置いといた牛乳の一升瓶が、馬に蹴られたのであろう、二つに割れて、地面に白く牛乳が流れている。そのひとはすぐ、藁編みの瓶容れを拾いあげ、じっと眺めて、残ってる瓶の下部をつまみ取り、乱暴に川の中に投り込み、地面の瓶の破片も、足先で乱暴に川に蹴込んで、それから瓶容れを私の手に返した。
「粗相しちゃった。すみません。」
「いいえ、宜しいんですの。」
そのひとも、馬も、わたしの方を見ていた。わたしも相手を見た。
男の年齢はわたしには見当がつきかねるけれど、三十前後だろうか、鳥打帽に薄羅紗のジャンパー、乗馬ズボンに赤の長靴、全体が茶色がかった色調で、きりっとした身なりである。馬の年齢もわたしには見当がつきかねるけれど、まだ若いらしく、でもサラ系ではなく、ありふれたつまらぬもので、ただ、鞍だけは立派である。
「牛乳は、どこで買ったんですか。」
隠すほどのことでもないから、わたしはありのまま答えた。
「ほう、あすこの茶店にたのんで……。」
なぜか、まじまじとわたしの顔を見るので、わたしは歩き出そうとした。
「ちょっとお待ちなさい。馬で一駆け、代りを取って来てあげましょう。茶店になければ、牧場から取寄せて貰います。僕の粗相だから、賠償さして下さい。ここで待っていて下さいよ。決して怪しい者じゃありません。小野田達夫……。」ポケットを探った。「名刺をいま持っていませんが、小野田達夫という者です。この辺で待っていて下さい。すぐ戻ってきます。」
藁編みの瓶容れをわたしの手から引ったくって、彼は馬に飛び乗ると、振り向きもせず遠ざかっていった。
わたしは呆気に取られた。悪意はなさそうだが、ずいぶん勝手な人だ。待っていようか、それとも行ってしまおうか。考えながら、川の方へ眼を落すと、彼が蹴込んだ硝子の破片が水底にきらきら光っている。おかしくなった。それに、牛乳もやはりほしかった。特別に新鮮なのをと、あの茶店に頼んで、一日おきに一升ずつ取りに行ってるもので、手ぶらで帰ったら、お母さまは、殊に病気のお姉さまは、がっかりなさるだろう。わたしは待つことにきめた。
橋の欄干によりかかって、川の底を覗いた。硝子が光っている。あの光りを見て、もしかすると、小魚が泳いでくるかも知れない。けれどいくら待っても、何にも出て来なかった。へんにつまらなくなった。魚が見えないからではなく、硝子の破片なんかあるからだ。
わたしは橋を離れて、川の土手を歩いてみた。よいお天気で、陽光は暖く、川風は凉しかった。野原に出て、足を投げ出し、青空にくっきり浮き出してる山々を眺めた。
ずいぶん時間がたったような気がした。遠くに馬の足音がした。知らん顔をしていてやった。
「おーい、おーい。」と馬上から呼ぶ。
ほかに何とか呼び方もあろうに、と不満だったが、橋のところに戻って来た。
彼は馬から降りて、満足そうに牛乳の一升瓶を見せたが、わたしには渡さなかった。
「その辺までお伴しましょう。」
こんどは、いやに丁寧だ。わたしは少し戸惑った。ぶらぶら歩いた。彼はわたしと並び、手綱のあとから馬がついてくる。時々大きな鼻息をするのが気味わるく、虚勢を張らねばならなかった。
「お宅は、三浦さんと仰言るんですね。」
わたしはびっくりして見返した。
「あの茶店で聞いてきたんです。すると、三浦春樹君の妹さんですね。」
「あら、兄を御存じでしたの。」
「亡くなられる前に、なんどもお逢いしたことがあります。あなたは秋子さんと仰言るんでしょう。どうも、似てると思っていました。」
わたしは黙っていた。わたしはお兄さまにはあまり似ていないのである。それとも、他人から見れば、やはり似てるところがあるのかしら。
「夏子さんはどうしていらっしゃいますか。」
わたしはまた彼の顔を見返した。
「みんなの名前を、御存じなんですの。」
「いや、当推量ですよ。春樹さん、秋子さん、だからその間は、夏子さん……。」
彼はそう言って笑ったが、どうも、へんにあやふやなのだ。真面目なのか冗談なのか、見当がつかなかった。こちらからあまり話をしたくなかった。でも、警戒したわけではない。彼の言行のうちには、なにか普通の作法に外れたようなところがあり、それが傲慢から来るのか天真爛漫から来るのかは分らないが、悪心はないように見えるのだった。それで、わたしはいい加減な受け答えをしてるうちに、あとで気付いたのだが、家の事情をだいたい話してしまったことになった。お兄さまは、日華事変中に中国で戦死されたこと、お姉さまが肋膜を病まれたあと、肺に浸潤が残っていて、避暑と保養とをかねて、お母さまとわたしと三人で、この高原の別荘に来ていることなど。
ぽつりぽつりと短い言葉を交わしながら、とうとう家の近くまで来てしまった。
「ついでに、お母さんにちょっとお目にかかっていきましょう。お願いしたいことがあるんです。」
嫌だともわたしには答えられなかった。
彼は馬がいるからと言って、家の中にははいらなかった。
お母さまは、いつもおおまかでのんびりしていらっしゃる。馬の轡をとってる彼と、門の前で立ち話をしながら、始終にこにこしていらして、時々ほほほと低くお笑いなすった。彼は、さっきの橋の上の出来事を話し、嘗て中国でお兄さまと交際があったと言い、自分はこちらに避暑に来てるのだが、友人たちは東京に帰ってしまい、退屈のあまり馬ばかり乗り回してるのだが、ついては、ただ当もなく馬を駆けさせるのも倦き倦きするし、牧場の前の茶店まで牛乳を取りに行くことを、自分に任せては下さるまいかと、押しつけるように頼んでしまった。
「是非そうさせて下さい。そうすれば、お嬢さんも楽になるし、僕も気晴しになるし、馬も駆けがいがあるし、僕はあの茶店で、二合ずつ牛乳を飲んでくることにしましょう。但し、運賃を頂こうなんて失礼なことは申しませんし、また、こちらの牛乳代を僕がお払いするなんて失礼なことも申しません。明日はよろしいんですね。では、明後日から実行致しますよ。」
はじめは、お母さまもお断りなすったが、あとでは、宜いとも悪いとも言わずに笑っていらした。
「お嬢さん、ちょっと紙きれと鉛筆を貸して下さい。」
それをわたしが持ってくると、彼は居所と氏名とを書きつけた。
「御疑念には及びません。こういう者です。」
彼の居所は、わたしの家から二キロばかり離れたところらしかった。彼が馬に乗って立ち去ると、お母さまは仰言った。
「この節は、ずいぶん風変りな人が出て来たねえ。だけど、春樹さんも、生きていたら、あんなかも知れないね。」
お母さまは頬笑んでいらしたが、わたしはなんだか不安な気がした。
彼――とはこれから言いにくいから、小野田さんと言うことにしよう――小野田さんは約束を守った。一日おきに、午前中、わたしの家に馬を駆けさしてきて、牧場前の茶店からの牛乳を届けてくれた。お母さまがいくら勧めても、決して家の中にあがることはなく、お茶一杯飲むこともなかった。馬上の牛乳配達、とわたしは冗談に言った。
ところが、ふしぎなことに、その馬上の牛乳配達の[#「牛乳配達の」は底本では「牛配乳達の」]ため、わたしたちの生活気分が次第に乱されてきたのである。
わたしは数日後、自分の楽しみの一つが無くなったのに気付いた。牧場前の茶店は、農家風のしっかりした家ではあったが、店としては縁台と上り框だけで、ほんの掛茶屋にすぎないし、ふだん、家の人たちは牧場に仕事に出ていて、お婆さんが留守をしてるきりである。わたしはそこで、渋茶をすすりながら、お婆さんからいろんな話を聞くのが、楽しかった。また、そこまでの往き帰り秋草を眺めたり、小さな林をぬけたり、清い川底を覗いたりするのも、楽しかった。一升瓶を下げて歩くことなんか、大したことではない。いえ、手ぶらで、当もなく散歩するなんか、却ってつまらないのだ。小野田さんのおせっかいのため、わたしは楽しみを奪われてしまって、あまり外にも出なくなった。少し遠くにある町の方への用事は、町外れにある矢野さんの別荘の番人が、五日めごとにやって来て、すっかり済ましてくれるのである。
わたしの不平はそれぐらいだったが、お姉さまの気持ちが少し変ってきた。
小野田さんのことを、はじめ、お姉さまはただ聞き流されただけだったが、いつのまにか、たいへん気にかけなさるようになった。
なんでもない時に、お姉さまはふとお洩らしなさったことがある。
「あのひとは、きっと、わたくしに大事な御用がおありなさるに違いない。」
びっくりして聞き返そうとすると、お姉さまは、きゅっと唇をゆがめていらっしゃる。わたしは何にも言えなかった。
小野田さんが午前中に来ないと、お姉さまはなにかじれて、わざと大きな声でお言いなさったこともある。
「小野田さんは、今日はどうなすったのかしら。」
時々、小野田さんが来る頃の時間を見計らって、お姉さまは庭に出て、籐椅子にじっと腰掛けていらっしゃる。庭の芝生の外は低い生垣になっていて、外庭と仕切ってあり、その生垣越しに、門から勝手口へ行く小道の方が見える。或る時、お姉さまと小野田さんとが、生垣越しに会釈を交わされてるのを、わたしは見た。けれど、一度も、言葉を交わされたことはなかったらしい。
けれど、わたしはお姉さまを見張っていたわけではない。とんでもないことだ。その上、わたしはなかなか忙しかった。牛乳でいろいろなお料理を拵えなければならなかった。バタのお料理がいちばんよいそうだけれど、お姉さまはもうバタの味に飽き飽きして
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