た。
「それは、嘘でしょう。あなたじゃない。たぶん、夏子さんかも知れない。」
 わたしは頬がぴくぴく震えるのを、自分でも感じた。
 小野田さんはひどく真面目になり、怒ってるような調子になった。
「冗談じゃない。そんな錯覚が、もしあったら、僕がぶち壊してやります。戦地でなら、錯覚もまだ許されます。馬が通ってゆく。真暗な夜、一列になって、足音もなく、ただ姿だけ、影のように通ってゆく。際限もなく、長い列をなして、闇の中を通ってゆく。そんなのを見たという兵がいる。そういう錯覚も、戦地ではあり得るかも知れません。然しそれも、ほんとに馬を愛しないから起ることだ。僕はここに来て、別荘番の百姓にたのんで、馬を借りてきて貰いました。この家には、厩舎はあるが、馬はいない。この馬は、僕がここにいる間、借りてるんです。なぜそんなことをしたか。錯覚を、あらゆる錯覚を、追っ払うためです。錯覚を追い払うばかりか、新たな勇気が出てくる。乗馬は、颯爽として、男性的で、直情径行で、ひねくれたくよくよしたものを排除する。つまり、真直に駆けぬける。これが大切です。秋子さんも馬に乗りませんか。僕が教えてあげるから。」
 怒って
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