いに咳をなさった。
「馬の駆けるような音がしたんだけれど……。」囁くようなお声だ。
 お母さまは編物の手を休めて、まだ耳を傾けていらっしゃる。
 虫の声がするきりで、しいんとした夜だった。わたしもちょっと変な気がして、もう読むのをやめた。
 そういうことが、時々起った。お姉さまの声はさまざまだった。
「ちょっと。」
「あ。」
「ほら。」
「ね。」
 突然、眼を宙に据えて、戸外の気配に聴き入りなさる。お母さままで首をかしげて、じっと聴いていらっしゃる。わたしには何にも聞えないのだ。あとでお姉さまに伺うと、遠くの林の中を馬が駆けていたり、家のまわりを馬が歩いていたり、裏口に馬がふーっと鼻息を吐きかけたり、みんな馬のことばかりだった。
 どうも少しおかしい。それに、お姉さまは、頬の赤みは増したようだし、深々とした黒目の色がいっそう深くなったようだし、前よりも鼻筋が通って皮膚が薄くなったようだし、お美しさに病的な感じが濃くなっていた。お咳は少し間遠になったが強くなり、お熱は平均すれば前と同じく七度二三分だが高低が多くなり、お食慾は減ってくるようだった。野島先生も前々から、暖いうち海岸へでもいら
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