んな日はいやですわ。どうしていいんでしょうね。それじゃ燈台守にでもおなりなさるといいわ。」
「燈台守たあ変なことを考えたもんだね。」
「私の叔父さんに燈台守をやってた人があったんですよ。何でも富山の方ですって。随分珍らしいことがあるそうですわね。」
「そりゃあそうだろうね……。君は一体国は何処なんだい。」
「伊豆ですよ。」
「へえ近いんだね。……流れ流れて東京に着いたというんだね。」
「ひどいことを仰言るわね。そりゃ種々な事情があったものですから。」
 おたか[#「たか」に傍点]は其処で身の上話を初めた。それは普通の小料理屋の女中が喋べるのと似寄った経歴だった。どこまでが本当でどこまでが嘘か分らない底のものだった。ただこういう話を松井は面白くきいた。何でも彼女が浅草の叔母の所に暫く厄介になっていた時の話である。叔母につれられてある晩散歩に出かけた帰りに丁度公園の中を通ると、ベンチに眠り倒れている小僧があった、でおたか[#「たか」に傍点]はそっと持っていた銀貨をその側に置いてきた。家に帰ると叔母からお金を落したんだといって大変叱られたが、そのことは黙って隠してしまったそうである。
「それが私の一生のたった一つの慈善でしょう。」と云っておたか[#「たか」に傍点]は笑った。
 松井は、その話が余りおたか[#「たか」に傍点]にそぐわないのでじっとその顔を見てやった。彼女の顔は煖炉の火を受けて赤く輝いていた。その時彼はふと気が附いたのであった。おたか[#「たか」に傍点]の顔は一体そういい顔ではなかったが何処かに非常に魅力のある処があった。何処だか松井にはその時まで分らなかった。それは口元から頬にかけたかすかな筋肉の運動だった。そこに人の心を唆るような、特に肉感を唆るような魅力があった。で松井はじっと其処に眼をつけた。
「何を見ていらっしゃるの。」とおたか[#「たか」に傍点]はにっと笑ってみせた。
 松井ははっとして眼をそらした。然しその時彼は心に非常な動揺を感じた。ある期待と妙な不安とが彼を捉えた。
「種々な目に逢ったんですが、何の足しにもなりませんわね。」と女はしんみりした調子で云った。「自分の考えなんか何の役にも立ちませんわ。ずるずると何かに引きずられてゆくような気がするんですもの。そうしちゃあ自分で自分を台なしにするんですわね。此処に来る時なんかでも、もうこれから真面目になりたいと思ったんですけれど、やはり駄目ね。」
「何が駄目だい。」
「私ね近いうちに此処を出ようかと思ってるの。」
「そしてどうするというんだい。」
「どうするって、そりゃあね……どうでもいいんですわ。そうしたらあなたの処へも一度お伺いしたいわね。」
「ああ遊びにおいでよ。御馳走は出来ないがね。」
「ほんとにいいんですか。お邪魔ではなくって?……でも村上さんやなんかお友達が始終いらっしゃるんでしょう。お目にかかるといやね。」
「そんなにいつも来やしないよ。」
「そう。では屹度お伺いするわ。私あなたの下宿はよく知ってるから。」
 それきり一寸言葉がと切れた。そして妙に落ち付きのない沈黙が続いた。
「おやもう乾いてしまったんですね。」とおたか[#「たか」に傍点]は急に思い出したように松井の着物に触ってみた。それから「おお熱い!」と云いながら立っていって窓を開けた。
 何時のまにか暴風雨は止んで、細い雨が降っていた。それでも庭の中には木の葉や紙屑が落ち散って、その上にしとしとと一面に雨が音もなく降濺いでいた。おたか[#「たか」に傍点]は外をじっと眺めながら、火に熱《ほて》った頬を冷たい風に吹かした。後れ毛が頸筋に戦いていた。
 松井はふり返って女の姿をみた。
「一ゲーム御願いしましょうか。」と彼女は顧みて微笑んだ。
「ああ、」と松井はうっかり答えてしまった。球なんか別に突きたくはなかったのだが。
 それでも彼は大変当りがよかった。何だか気が軽々していたのである。
 丁度一ゲーム終ろうとする頃表の戸が開いた。林が笑顔をして立っているのが見られた。
おたか[#「たか」に傍点]は突棒《キュー》を捨てて立って行った。そして彼の手から帽子を取って釘に掛けた。
「お茶をお一つ。」と彼女は奥の方に呼ばわった。が何の返事もなかったので、彼女はも一度「お茶をお一つですよ。」と大きい声を出した。
「ああいますぐ。」と寝惚けた上さんの声が聞えた。
 林はずっとはいって来て不思議そうに煖炉の前に立ち留った。
「もう煖炉を焚くんですか。」と彼は云った。
「ええ今ね、」と云っておたか[#「たか」に傍点]は松井を見て卑しい笑顔を作った。「松井さんがずぶ濡れになっていらしたものですから、特別に焚いたんですよ。」
「もうそろそろ本当に焚きはじめてもいい時ですね。僕は火を見るのが大好きです。」
「ほんとにいいものですわね。」
 其処に上さんが茶を持って出て来た。
「おや林さんですか。誰かと思ったら。……先日の晩は大変でしたでしょう。」
「ええ少し……。」と云って林はにやにや笑っていた。
 上さんは林の顔を覗き込むようにして囁くようにこう云った。
「大丈夫ですか。」
「ええ。」と林は首肯いた。
 それから林は普通の声で、上さんに西洋料理を二三品頼んだ。
「実は腹が空いたのでぶらりと出かけたんですが、こちらについ先に来てしまったんです。いえなに……、」と彼は時計を仰ぎ見た。それは九時を過ぎていた。「十時頃でいいんですよ。まだ大分雨が降っていますから。」
 松井は林をじっと見た。そして支那人かも知れないと云った村上の言葉が可笑しくなった。然し林の妙にだだっ広い額を見ているとわけもなく腹立たしくなってきた。それでも彼は終りに綺麗に球を突き切ってしまった。
「此度は林さんといらっしゃいよ。……林さん松井さんとお一つどうか。」とおたか[#「たか」に傍点]が云った。
「さあ、」と云い乍ら松井は突棒《キュー》を捨てて椅子に腰を下した。
 けれども林は立って来て球を並べながら云った。
「一つお願いしましょう。」
 松井も仕方なしに立ち上った。
 おたか[#「たか」に傍点]は火鉢に火を入れて、それを球台の下に置いた。それからゲーム台の処に坐って、じっと林を見た。彼女の眼からある微笑みが出て、それが林の顔を笑ました。
 松井は林がやって来てから急に一種の屈辱を感じた。皆が林と影でそっと意を通じていること、林が主人顔に振舞っていること、それが松井の鋭い神経に触れたのである。そして突棒を取って林に向いながら彼は強い憎悪を身内に感じた。
 松井はなるべく敵に譲る後球《あとだま》が悪くなるようにした。自分で万一を僥倖しないで、敵に数を取らせない工夫をした。そして第一回は美事に勝った。第二回も勝利を得た。第三回にも同じ方法を講じた。然し林は松井の残した悪球を平気で突いた。顔の筋肉一つ動かさなかった。おたか[#「たか」に傍点]も澄ましていた。で松井は苛ら苛らして来た。やってることが林やおたか[#「たか」に傍点]に分らない筈はないと思った。彼は興奮した眼を突棒の先に注いだ。そしてゲームを突き切った時、突棒を捨てた。
「今日は大変当りがお悪いですね。」とおたか[#「たか」に傍点]が林に云った。
「ええ駄目です。」と林は平気でいた。
 松井はすぐに帰る仕度をした。
「まだお宜しいじゃありませんか。」
「いや少し急ぐから。」
 松井が表に出ようとした時、おたか[#「たか」に傍点]が其処に駈けて来た。
「またあしたどうぞ。」と囁くように云って彼女はじっと松井の眼の中を覗いた。
 外にはまだ雨が降っていた。軒影や軒燈の光りがしっとりと濡れていた。松井は急に肌寒い思いをしながら、傘の下に身を小さくして歩いた。
 彼の心は興奮したまま佗びしい色に包まれた。凡てのことが何かの凶兆を示すように思えて来た。そして彼は泥濘の上に映った足下の灯を見て歩きながら、おたか[#「たか」に傍点]の顔を思い浮べた。今日初めて気が附いたあの肉感的な頬の魅力が眼の前にちらついた。然しそれは、苛ら苛らした興奮や、一種の敵意や、漠然とした佗びしさの被《ベール》を通して見た情慾であった。
 彼は顔の筋肉を引きしめながら、眼を上げて雨中の街路をすかし見た。

     四

 松井の下宿は静かな裏通りにあった。彼の室のすぐ前には可なりの庭があった。彼はよく机に凭れながら更けてゆく秋を眺めた。樹の梢が高く空に聳えていた。夜には星が淋しく美しく輝いた。
 彼はやはりよく球突に通った。多くは村上と二人で、稀には自分一人で。然しおたか[#「たか」に傍点]の周囲にはそれきり何の変りもなかった。ずるずると引きずられてゆくような現状が続いた。
 けれどある日おたか[#「たか」に傍点]は球突場に姿を見せなかった。そしてそのまま五日過ぎ十日過ぎるようになった。と前後して林の姿も見えなくなってしまった。
 松井と村上とは余りおたか[#「たか」に傍点]のことについて話し合わなかった。彼等はその話を避けるようになった。ある気まずい感情があって、それがお互に心の底を隠すようにさした。
 ある晩、松井が自分の室の障子をあけて、ぼんやり空の星と庭の木立とを見ていた時、そしてとりとめもなくおたか[#「たか」に傍点]とその周囲とのことを腹立たしく思い起していた時、村上が急いでやって来た。
「おいおたか[#「たか」に傍点]に逢ったよ。」と村上は眼を丸くしていた。彼が友の家を訪ねて、帰りにぶらりぶらり広小路を歩いて来ると、向うからおたか[#「たか」に傍点]がやって来るのに出逢った。お召の着物と羽織を着てキルク裏の草履をはいていた。村上に気がついたかつかないのか、向うをむいて通りすぎてしまった。村上も黙っていたそうである。
「本当なのかい。」と松井は眼を輝かした。
「嘘を云ってどうするんだい。」
 二人はじっと相手の眼を見入った。
「あの婆がいけないんだよ。」
「そうだ。」と松井も応じた。
「もう余りあの家に行くのは止そうよ。」
「ああ少しひかえようね。」
 然し二人はやはりよくその家に出かけて行った。
 彼等はある一種盲目な力に引かされたのである。そしてその家には、彼等にとってはある淋しい心安さがあった。
 丁度おたか[#「たか」に傍点]が居なくなって二週間ばかり過ぎた時、二人はその家に林を見出して全く意外の感に打たれた。
 林は二人を見て一寸頭を下げた。村上は澄まして向うに行ってしまった。然しその時松井は、わけもなくほっと軽やかな心地を感じて、ずっと林の前に歩み寄った。
「大分暫くでしたね。」と松井は云った。その声は妙に喉の奥でかすれた。
「ええ。丁度暫く病気をやったものですから。まだ薬を飲んでいますけれど、もう殆んど宜しいんです。」
「それはいけませんでしたね。」
 そのまま黙って松井は林の前につっ立っていた。林は横を向いていた。ふと気が附くと松井は吃驚して村上の処へ行った。そして台があいた時二人で球を突いた。
 その晩他の客が帰ると一緒に林も早く帰っていった。
 村上と松井とは遅くまで球を突いた。訳の分らぬ感情が彼等を引きとめたのである。何か平衡を失したものが彼等の心の中に在った。おたか[#「たか」に傍点]の後に来た眼の細い白粉をつけた女がゲームを取った。
 二人が其処を出たのは十二時近くであった。
 風のない静かな晩だった。軒燈のまわりに静かな気が渦を巻いていた。凡てが今眠りにつこうとしている。そして物影がじっと沈んでいる。
「林は病気だって云うのかい。」と村上は尋ねた。
「そうだ。然し君、林は僕達よりずっと豪い人間のような気がするね。」
「いやにまた林が好きになったもんだね。」
「そうでもないがね。……然し君は一体ひどくなげやりな空想家だね。」
「そりゃあ君ほどの理想家じゃないよ。」
 二人は黙々と歩いた。彼等の心にはそれぞれそれとも云えぬ空虚な傷があった。其処から次第に対象の分らぬ頼り無い憤懣の情が起って来た。
「此度はどうしてこう妙な気持ちになったんだろうね。」と松井は云った。
「女が豪いか
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