「君のように絶えず真面目を求めすぎると大変な損をするよ。少しは遊びをしなくてはね。」
「けれど君、」と松井は反駁した。「人事の上に超然として遊びが出来るためには自分に大なる力を持っていなくちゃならない。そうでないとずるずる引きずり込まれてしまう恐れがあるんだからね。でそういう力は何処から来るんだ? 僕は凡てを真面目に考える処からその力が湧くんだと思っている。そして真面目を徹底した処に本当の遊びがあると思っている。」
「それは君の所謂神の域に達したものなんだろう。けれど君そうやたらに神様になれるもんかね。そう理想と現実とをごちゃごちゃにしちゃあ苦しくってやりきれない。そりゃあ僕だって神にはなりたいやね。」
「とんだ神だね。」
「なにこれで案外君より上等の神になれるかも知れないよ。」
一寸言葉がと切れると、二人の心の底にある寂寥の感が湧いた。それは空腹の感じと似寄った感じだった。それきり二人共黙り込んでしまった。
すっかり戸が閉されてしまった通りには、がらんとした静けさがあった。稀に通り過ぎる人は足を早めた。そして雨あがりの水溜りや泥濘の上に、赤い火がきらきらと映っていた。
二
松井と村上とは相変らず球突場に通った。
夜に電燈がともるとすぐに、広い室の青い瓦斯の光りが思い出せた。すうっと羅紗の上を滑ってゆく赤と白と四つの球が眼にちらついて来た。すると遠いなつかしい音をきくように、こーんこつ[#「こーんこつ」に傍点]という球音が響いてくる。そしてゲームを取るおたか[#「たか」に傍点]の透き通った声までが聞えるように思えた。
松井と村上とは孰れからということなしに誘い合って球突場に行った。
それは一種の惰性であった。然し惰性ならぬものが次第に彼等二人のまわりに、そして林やおたか[#「たか」に傍点]のまわりに絡まっていった。松井、村上、それと林とは、いつもよくおたか[#「たか」に傍点]の側に夜更しの競争をした。そのことが松井を苛ら苛らさした、村上を微笑ました、そして一層林を沈黙にさした。
おたか[#「たか」に傍点]は時々二日三日と続けて家に居ないことがあった。その時は大抵林も姿を見せなかった。
妙な暗示が松井と村上とに伝わった。
「留守見舞は余り気がきかなさすぎるね。」
球突場を出ながら村上はこんなことを云った。
「僕はあの林が大嫌いだ。いやな奴だ。」
「あれで中々うまいことをやってるんだね。」
「どうして?」
「どうしてってそりゃあ君……。」と云いながら村上は笑ってしまった。
それは或る綺麗に晴れた晩だった。袷の肌には外の空気が少し冷やかすぎる位であった。松井は村上に誘われて、ぶらりぶらりと当もなく散歩に出かけた。
彼等は明るい電車通りを選《よ》って歩いた。村上は心に何かありそうな顔色をしていた。それが松井にも伝った。孰れも球を突こうとも云い出さないでただ歩いた。然し歩いているうちに歩くことが無意味に馬鹿々々しく思えて来た。
「麦酒《ビール》でも飲もうか。」と村上が云った。
「よかろう。」
二人はさる西洋料理屋の二階に上った。そしてすぐ右手の狭い室にはいった。室には他に客はなかった。食卓の上に只一つ蘇鉄の鉢がのっていて、それが向うの柱鏡に映っていた。
二人は料理を食って麦酒を飲んだ。それから洋酒も一二杯口にした。そして何だか互に視線を避けるような心地で居た。
「ちっとも飲まないね。」
「なにこれからだよ。」と云って村上は洋盃をとり上げた。
「酔って球を突いたら面白いだろうね。」
「そう今晩また出かけようかね。」
「ああいってみようよ。」
「実は……、」と云いかけて村上は相手の顔を覗き込むようにした。「僕はちとあの家には不愉快なことがあるんだ。」
「どうしたんだ。」
「なに昨夜ね、一人で出かけちゃったんだ。十一時頃までついたがね。おしまいには僕一人になってしまったんだ。林もやって来ないしね。するとおたか[#「たか」に傍点]がね、お対手がなくて淋しいでしょうと云って、変に皮肉な笑い方をしたんだ。……一体君はおたか[#「たか」に傍点]と林とをどう思ってる?」
「どうって何が?」と松井はどう返事をしていいか迷った。
「先からあやしいんだ。君だってそれ位のことは分ってるだろう。あのお上がいいようにしたんだね。……そこで、あそうそう、おたか[#「たか」に傍点]が僕にお淋しいでしょうと云ったから、僕も少しふざけて林のことでおたか[#「たか」に傍点]を散々ひやかしてやったのさ。」
「へえ!」
「なに奴《やっこ》さん洒々《しゃあしゃあ》たるもんだ。所がね、側に居たお上が少し意地悪く出て来たんだ。村上さんも嫉妬やくほど御不自由でもないでしょうへへへと笑いやがるんだ。そしておたか[#「たか」に傍点]と見合っては皮肉な笑を洩らすんだ。随分癪に障っちゃったよ。」
「それでやり込められたわけだね。」
「なにあべこべにやり込めてはやったんだがね。君がいう通り随分いやな婆だよ。」
「一体林とおたか[#「たか」に傍点]のことは確かなのかい。」と松井は尋ねた。
「多分間違はないよ。勿論おたか[#「たか」に傍点]の方から云やあ一時の撮み喰いにすぎないんだろうがね。」
松井は黙って洋盃《コップ》を上げた。と村上も同時にぐっと一杯やった。
「それにね、」と村上は声を低くした。「林と云うなあ支那人じゃないかと思うんだがね。いやに黙りくさってにこにこばかりしていやがってね。りん[#「りん」に傍点]と読めば君よく支那にある名前じゃないか。どうもあの顔付が何だか変だよ。」
「そう云やあ、あの顔の工合なんかどうも本物らしいね。」
もう二人共可なり酔っていた。瞳を据えて互の眼を見入りながら、彼等は何かある不吉なものを感じあった。それは言葉には現せないただ漠然としたものだったが、それが次第に色濃くなってゆくのを二人共意識していた。
「馬鹿な話だ。」
「馬鹿な話だ。」
こう殆んど同時に二人は云った。
「ほんとに林は支那人かね。」と暫くして松井は云った。
「なに事実はそうじゃないだろう。只そう思った方が面白いやね。」
「だんだん複雑してくるね。」
「何が?」
「何がって……おたか[#「たか」に傍点]の周囲がさ。」
「僕達も当然そのうちにはいるんだろうね。」と云って村上は笑った、「その方が面白いじゃないか。」
「どうだか。」
「だって君はおたか[#「たか」に傍点]が好きだろう。好きだと云い給えな。」
「嫌いじゃないよ。……君はどうだ。」
「僕だって嫌いじゃないさ。が好きでもないね。」
二人はまた酒をのんだ。
「ねえ君、」と云って村上はすぐ松井の顔の前に自分の顔を持って来た。「おたか[#「たか」に傍点]が僕達二人のものだったら、君は僕と決闘でもやるだろうかね。」
松井は黙って村上の眼を見返した。
二人は露わに互の眼を見合った。一瞬間其処には何の愧じらいもなかった。互に裸体のまま相手の凝視の前に立っていた。
松井ははっとした。それが何かということがちらと心に閃めいたのである。彼は拳を固めた。そしてつと顔を引いたと同時に村上も顔をひいた。
「え!」と喫驚したような声を松井は出した。
「さあ飲もうよ。」と村上が云った。
二人はまた少し酒を飲んだ。然し二人の間には軽い敵愾心があった。妙に他処々々しい視線を互の上に投げた。
二人が其処を出たのは九時すぎであった。二人共大分酔っていた。熱い頬に冷たい空気が流れた。街路の灯がいつもより赤いように彼等の眼に映じた。
「球を突いてゆくのか。」
「突いてゆくさ。」
そして二人は例の球突場にはいった。瓦斯の下に見馴れた球台を見出すと、彼等は急に心が和いで、先刻のことは忘れてしまった。
其晩林は来なかった。村上と松井とは遅くまで無駄口をたたきながら球を突いた。おたか[#「たか」に傍点]が美しい声で然しいい加減にゲームを取った。
三
一雨毎に寒くなっていった。百舌鳥が鳴いて銀杏の葉が黄色くなっていた。
その日朝から怪しい空模様だったが、午後には大分激しい吹き降りになった。そして晩まで続いた。
ささっ、ささっと大粒の雨が合間々々に一息しながら降り続いた。それが風に煽られながら軒や戸や木の葉の茂みにうち附けて一面に霧を立てた。雨と風と縒れ合いながら軒から軒へ通りすぎてゆく時、凡ての物音は消されて只騒然たる雨音ばかりが空間に満ちた。
おたか[#「たか」に傍点]は一人で球突場に居た。
彼女は何かしら気がくしゃくしゃしていた。ともすると心が滅入《めい》りそうになった。凡てのことが妙に儚く頼りなく思えるのであった。それなのに手足の先きには生々とした力が籠って、溌溂たる運動を待ち望んでいるかのような心地がした。
で彼女はそっと飛び上って球台の上に腰掛けた。そして両足をぶらぶらと動かした。空間に触る蹠の感じと膝関節の軽い運動とが、彼女の心を楽ました。それは彼女が幼い時からそのままに持っている唯一の感覚だった。
その時彼女は、いつかも同じ様に球台に腰掛けていた時、はいって来た客に見られて抗議を申し込まれたことのあることを、ふと思い出した。そして何となく可笑しくなった。
彼女は球台に腰掛けながら、球を拭いた。そして低い声で種々な小唄を歌ってみた。後には幼い時覚えた唱歌までも口吟んでみた。それから心の中では遠い未来の幸福を夢みた。外に荒れている暴風雨が何か思いも寄らぬ幸福を齎すのではないかと空想した。
然し乍らその瞬間はすぐに去った。彼女は自分の夢に自ら驚いた。それは現在のうちにちらと映ずる過ぎた幼時の心であった。自ら識って見ることの出来ぬ夢であった。
おたか[#「たか」に傍点]はちぇっと舌打ちをして球台から飛び下りた。そして急いで球を拭き終ってそれを箱の中にしまった。もう客もないと思ったのである。そして刷毛で台の羅紗を拭いた。生に疲れたといったような気分が彼女の心を浸していた。
その時表に急な足音がして、入口の硝子戸ががらりと開いた。
それは松井であった。傘を手にしながら殆んど半身は雨に濡れていた。
「まあどうなすったんですか。」
「球突きに来たんだよ。」
「おやそれはどうも毎度あり難う。」と云っておたか[#「たか」に傍点]は笑った。
「なに実はね、今日昼間から友達の処へ行ったんだ。余り止まないから帰りかけたんだが、この通りびしょ濡れになってしまって、仕方なしに飛び込んだのさ。」
「あら大変濡れていらっしゃるわね。家に着換でもあるといいんですが。……あそうそう、」と云って彼女は大きく一つ息をした。「煖炉を焚いてあげましょう。少し早いんですけれど。じきに乾きますよ。」
「なにいいんだよ。」
それでもおたか[#「たか」に傍点]は煖炉に炭をくべて、火を入れた。二人はその前に椅子を並べた。
「さすがに今日は誰も来ないんだね。」
「ええ、わざわざ濡れてまでいらっしゃる方はあなた一人ね。」
「これは驚いた。」
「いえ、だからあなたが一番御親切だと云うんですよ。」
「一番親切で一番厄介だというんだね。……だが一体こんな時には君はなにをするんだい。」
「え?」
「一人で隙な時にさ。」
「これでも、」と云っておたか[#「たか」に傍点]は笑った。「種々な用事があって、そりゃ忙しいんですよ。」
「へえ。余りよくない用事ばかりでね。」
「馬鹿なことを仰言いよ。」
煖炉の火が音を立てて燃え出した。竈が赤くなって二人の顔を輝らした。珍らしく接する赤い火の色や音や匂いまでが、全身の感覚にある悦びと輝きとを起さした。二人はふと顔を見合ってわけもなく微笑んだ。
「火というものはいいもんだね。」
「ええ。でも私は煖炉より炬燵の方が好きですわ。よく暖まってね。」
「炬燵でちびりちびり酒でもやるなあ悪くはないね。」
「私だめ。ちっとも飲めないんですよ。」
「特別の場合を除いてはね。……だが今日のような暴風雨《あらし》の日には煖炉もいいね。雨音をききながら火を見てるなあいいものだよ。」
「私は頭がくしゃくしゃしてこ
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