球突場の一隅
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)慌《あわただ》しそうに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半分|助《す》けて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21]
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一
夕方降り出した雨はその晩遅くまで続いた。しとしととした淋しい雨だった。丁度十時頃その軽い雨音が止んだ時、会社員らしい四人達れの客は慌《あわただ》しそうに帰っていった。そして後には三人の学生とゲーム取りの女とが残った。
室の中には濁った空気がどんよりと静まっていた。何だか疲れきったような空気がその中に在った。二つの球台《たまだい》の上には赤と白と四つの象牙球が、それでも瓦斯の光りを受けて美しく輝いていた。そして窓から、外の涼しい空気がすっと流れ込んだ時、ただ何とはなしに皆互の顔を見合った。
室の奥の片隅にゲーム取りの女と一人の学生とが腰掛けていた。それと少し離れてすぐ球台の側の椅子に二人の大学生が並んでいた。村上という方は、色の白い眉の太い大柄《おおがら》な肥った男である。大分強い近眼鏡をかけているが、態度から容貌から凡て快活な印象を与える。之に反しても一人の方は、細そりとした身体つきで、浅黒い頬には多少神経質な閃きが見られた。遠くを見るような眼附をしながら、じっと眼を伏せる癖があった。松井という姓である。
「おい!」と村上は小声で松井の方を向いた。彼は眼の中で笑っていた。
松井はただじっと村上の顔を見返しただけで、何とも云わなかった。
村上はそのまま視線をそらして室の中をぐるりと見廻したが、急に立ち上った。
「おたか[#「たか」に傍点]さん一つやろうか。」
「ええお願いしましょう。先刻《さっき》の仇討ちですよ。」
「なにいつも返り討ちにきまっているじゃないか。」
「へえ、今のうちにたんと大きい口をきいていらっしゃいよ。」
女は立って来て布で球を拭いた。そしてそれを並べながら松井の方に声をかけた。
「松井さん、あちらでこちらの方《かた》と如何です。」
「今日はもう疲れちゃった。」と松井は投げるように云った。
其処にお上さんが奥から茶を汲んで出て来た。もう可なりのお婆さんである。いつも髪を小さく束ねて眉を剃っている。妙に人の顔をじろじろ見る風があった。
「どうかなすったんですか。」と上さんはすぐに会話を奪ってしまった。
「え!」と松井は怪訝な顔をした。
「大層沈んでいらっしゃるじゃありませんか。」
「そうですかね。」
「おやおや。まあお熱いところでも召上れ。」
上さんはこう揶揄うように云いながら彼に茶をすすめた。そして向うに黙っているも一人の学生に声をかけた。
「林さん、こちらと一ついらっしゃい。」
林と呼ばれた男はやはり黙ったまま笑顔をしてこちらを見ていた。
「さあいらっしゃいよ。」と上さんはまた松井を促した。
「今日は止しましょう。」と暫くして松井は云った。
「懐で物案じというんですね……。」と云いかけたが、彼女は急に調子を変えた。「まあご悠り遊んでいらっしゃい。」
そして彼女は奥に入りながら、球をついていた村上に声をかけた。
「村上さん沢山負かしておやりなさい。この節は鼻っぱしばかり強くていけませんよ。」
こう云われておたか[#「たか」に傍点]は眼で笑ってみせた。
夜遅くなるといつもおたか[#「たか」に傍点]一人で、余り突けもしないが客の対手をしたりゲームを取ったりした。いつもは主人が客の対手をするんだが、もう大分頭の禿げかかった彼は、夜は眼がよく利かないと云って早くから奥にはいるのであった。で客の多い時は上さんが出て来て一方のゲームを取ったが、大抵はおたか[#「たか」に傍点]一人であった。でよく夜更けまでおたか[#「たか」に傍点]を相手に遊んでいく客があった。村上と松井と林とは殊に夜更かしの連中であった。村上と松井とは連れであった。林はいつも一人でやって来た。彼等が林という名前を知ったのも、「林さん如何です。」というおたか[#「たか」に傍点]の言葉からであった。
松井はその日午後から気分が晴々としなかった。考えるもの見るもの凡てが、しきりに胸の奥へ沈み込んでゆくような心地であった。そういう憂鬱は彼には珍らしくもなかった。彼はその時何時も自然に種々なことをしきりに考え込んだ。
で彼はまたぼんやりと取りとめも無い思いに耽りながら、村上とおたか[#「たか」に傍点]とに突かかる球を見ていた。それからふと視線をそらして林を見ると、林は一心に球の方を見つめている。
その時松井の心にふと嫌悪の情が閃めいた。
松井と村上とはよく遅くまで球突場を去らないことがあった。林もよく遅くまで遊んでいった。度々彼等は一緒になることがあった。そういう時は、屹度一方が帰るまで片方も立ち上らなかった。何ということなしに自然にそうなったのである。
俺は何も林の向うを張るんじゃない、と松井は思った。第一おたか[#「たか」に傍点]に対しても何の感情も持っていない。よしまた俺のうちに自分で自覚していない感情があるにしても、林なんかと競争をするものか。その妙にだだっ広い額、鼻筋の低い鼻、薄い髪の毛、ゆるんだ唇、もうそれで沢山だ!
彼はつと立ち上って、窓に凭れて外を眺めた。すぐ前に大きい檜葉《ひば》があって、その向うの右手の隅に八手《やつで》があった。その葉には雨の露がまだ一杯たまっていた。でも空は綺麗に晴れて星がきらきらと輝いていた。星の光を見ていると、雨に清められた夜の空気が胸に染み込んでくるような気がした。
暫くするとおい! と肩を叩かれたのでふり返ると、村上が立っていた。
「どうしたい。」
「散々まかされちゃった。」
女はまだ球を突いていたが、おしまいに失礼と云いながら突き切ってしまった。
「さあも一度いらっしゃいよ。」
「もう止しだ。」
「負け腹を立てるなんか柄でもないわ。ねえ松井さん。」と女は睨むような眼付をした。
「おいおい、」と村上は口を入れた。「勝った時にはも少し口を慎むものだよ。」
「その代りに何か奢りなさいよ。」
「そうだねえ……何でも御望み次第。」
「懐の御都合次第。」と女は村上の調子を真似ながら笑った。
「おそば……はどうだ。」
「それから?」
「何がさ?」
「それから麦酒《ビール》というんでしょう。」
「いや今日は飲まない。それともおたか[#「たか」に傍点]さんが半分|助《す》けてくれるというんなら、そしてついでにお金の方もね。」
「それこそ占いだわ。」
それをきいて松井も思わず微笑んだ。
「何が占いだ。」
「例の君の占いさ。」と松井が云った。
「ああこれは驚いた。そういつまでも覚えられていた日にはたまらないね。」
けれども村上の顔にはそういう言葉の下からちらと淋しい影がさした。
村上の占いというのはそう古い話ではない。丁度七月のはじめ梅雨も霽れようという頃であった。彼は少し入用の金が出来た。誰にも何とも云わなかったので分らないが、前後の事情から推すと、前から大分関係があった或る女とそれとなく別れるため二三日の旅をするつもりの金だろうと松井は思った。兎に角彼は少し纒まった金が入用になって、故郷広島のさる叔父に内々無心をしたのであった。暫く何の返事もなかった。彼は落ち付かない日を送った。ある晩ぶらぶら散歩していると薄暗い通りに占いの看板を見出した。変な気になって彼は遂にその晩、怪しい老人から吉の占いを得て帰った。翌朝叔父から金が届いたとのことである。
「占いをなすったことがあるんですか。」と林は初めて口を開いた。
「いや、つまらない事なんです。」と村上は答えた。
「あれで中々面白いものでしょうね。」
「さあどうですか。案外つまらないものかも知れませんよ。」
「そうですかねえ。」
それっきり一寸皆黙ってしまった。
「おそばももう今晩はお流れだし、」とおたか[#「たか」に傍点]が沈黙を破った。「松井さん、では一ゲームいらっしゃい。」
「もう今日は黙目だよ[#「黙目だよ」はママ]。」
「意気地なしだわねえ。林さん一つお願いしましょうか。」
林はただ微笑んでみせた。
おたか[#「たか」に傍点]はもう突棒《キュー》を手にして、媚ある眼でじっと見やった。で林はそのまま立ち上った。
林は平素よりいくらか当りが悪いようだった。
「大変優勢だね。」と村上はおたか[#「たか」に傍点]に声をかけた。
「ええ今晩は馬鹿にいいのよ。」こう云って彼女は怪しい笑みを洩らした。
黙ってゲームを見ている松井の心にある佗びしい思いが湧いた。何ということもなく只捉え難い空虚の感である。瓦斯の光りが妙に淋しい。球の色艶が妙に儚い。
彼は遠い物音をでもきくような気で球の音をきいていた。暫くして漸く心をきめた。
「おいもう帰ろうよ。」
「え!」と村上は松井の顔を覗き込んだ。
「僕は先に失敬しよう。」と松井は云い直した。
「いや僕ももう帰るよ。」
「おやもうお帰り?」おたか[#「たか」に傍点]が親しい調子で云った。「今日は大変お早いんですね。」
松井はじろりと林を見て、それからつと外に出た。村上もすぐ後に続いた。
大地は心地よく湿っていた。空は綺麗に晴れて星が輝いていた。清い新鮮《フレッシュ》な気が夜を罩めて、街路はひっそりと静まり返っている。夜更けの瓦斯の光りには、何処にも宵の雑沓の思い出がなかった。
「いい晩だねえ。」
「ああ。」
暫く無言で歩いていたが村上は急に思い出したように云った。
「一体今日はどうしたんだい。」
「何が?」
「何だかいつもと調子が違うぜ。」
「ああそうか、」と云ったが、松井は急に種々なことが頭の中に湧き返った。種々の思いが一緒に口から出て来た。「僕はもうあの家で余り夜更しをしたくないと思ってる。球を突き倦いてしまってからまで愚図々々しているのはもう嫌になっちゃった。……第一あの林という男は不愉快だね。あの妙に黙ったねっちりした態度が気に喰わないや。それにどうしたんだか彼奴が居る間は僕達もやはり帰らないようになったんだね。何も彼奴の向うを張っておたか[#「たか」に傍点]をどうかしようというんじゃあるまいし、実際馬鹿げてる。……一体余り遊んでると頭が散漫になっていけない。」
「妙な考え方をしたもんだね。そんなことを考えるからいけないんだ。まあ君、ある遊戯を二人なり三人なりでやる場合に、対手が其処に居る間はこちらもやはり遊んでいたいというのは、普通のことだろうじゃないかね。……君のように考えるのは危険だよ。君あのおたか[#「たか」に傍点]という女は大抵の女じゃないよ。どうも陰影の少い男性的な、余りほめた顔じゃないんだが、あの眼の動きには実際豪い所があるよ。うっかりしちゃいけないぜ。」
その時松井の心におたか[#「たか」に傍点]の顔がはっきり浮んできた。大きい束髪に結っている、眉の濃い口元のしまった男性的な顔付である。馬鹿に表情の複雑な眼が光っている……。松井はその顔を不意にはっきり思い浮べたことを意識して、心にある動揺を感じた。
「君は一体、」と村上はまた云った。「物事を余り真面目に考えすぎるからいけないんだ。世の中のことは万事喜劇にすぎないんだからね。」
村上に云わせると斯うである――人生はある事件々々の連続である。所が事件と事件との連絡関係は人力の如何ともすべからざるものである。それは人間以外のものによって決定される。人は只運命に任せる外はない。けれども一つの事件そのものは人の見方によってどうにでもなるものである。見方によって赤となり青となる。が事件そのものは常に喜劇の形を取っている。其処には偶然があり意外があり無知があり滑稽がある。で運命に頭を下げ乍らも事物を大袈裟に考えてはいけない。物事をこき下《おろ》して正当な評価をすることは、最も強く生きる途である。
「だから、」と村上は続けた。
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