か[#「たか」に傍点]は一人で球突場に居た。
 彼女は何かしら気がくしゃくしゃしていた。ともすると心が滅入《めい》りそうになった。凡てのことが妙に儚く頼りなく思えるのであった。それなのに手足の先きには生々とした力が籠って、溌溂たる運動を待ち望んでいるかのような心地がした。
 で彼女はそっと飛び上って球台の上に腰掛けた。そして両足をぶらぶらと動かした。空間に触る蹠の感じと膝関節の軽い運動とが、彼女の心を楽ました。それは彼女が幼い時からそのままに持っている唯一の感覚だった。
 その時彼女は、いつかも同じ様に球台に腰掛けていた時、はいって来た客に見られて抗議を申し込まれたことのあることを、ふと思い出した。そして何となく可笑しくなった。
 彼女は球台に腰掛けながら、球を拭いた。そして低い声で種々な小唄を歌ってみた。後には幼い時覚えた唱歌までも口吟んでみた。それから心の中では遠い未来の幸福を夢みた。外に荒れている暴風雨が何か思いも寄らぬ幸福を齎すのではないかと空想した。
 然し乍らその瞬間はすぐに去った。彼女は自分の夢に自ら驚いた。それは現在のうちにちらと映ずる過ぎた幼時の心であった。自ら識って
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