が村上は急に思い出したように云った。
「一体今日はどうしたんだい。」
「何が?」
「何だかいつもと調子が違うぜ。」
「ああそうか、」と云ったが、松井は急に種々なことが頭の中に湧き返った。種々の思いが一緒に口から出て来た。「僕はもうあの家で余り夜更しをしたくないと思ってる。球を突き倦いてしまってからまで愚図々々しているのはもう嫌になっちゃった。……第一あの林という男は不愉快だね。あの妙に黙ったねっちりした態度が気に喰わないや。それにどうしたんだか彼奴が居る間は僕達もやはり帰らないようになったんだね。何も彼奴の向うを張っておたか[#「たか」に傍点]をどうかしようというんじゃあるまいし、実際馬鹿げてる。……一体余り遊んでると頭が散漫になっていけない。」
「妙な考え方をしたもんだね。そんなことを考えるからいけないんだ。まあ君、ある遊戯を二人なり三人なりでやる場合に、対手が其処に居る間はこちらもやはり遊んでいたいというのは、普通のことだろうじゃないかね。……君のように考えるのは危険だよ。君あのおたか[#「たか」に傍点]という女は大抵の女じゃないよ。どうも陰影の少い男性的な、余りほめた顔じゃないんだが、あの眼の動きには実際豪い所があるよ。うっかりしちゃいけないぜ。」
その時松井の心におたか[#「たか」に傍点]の顔がはっきり浮んできた。大きい束髪に結っている、眉の濃い口元のしまった男性的な顔付である。馬鹿に表情の複雑な眼が光っている……。松井はその顔を不意にはっきり思い浮べたことを意識して、心にある動揺を感じた。
「君は一体、」と村上はまた云った。「物事を余り真面目に考えすぎるからいけないんだ。世の中のことは万事喜劇にすぎないんだからね。」
村上に云わせると斯うである――人生はある事件々々の連続である。所が事件と事件との連絡関係は人力の如何ともすべからざるものである。それは人間以外のものによって決定される。人は只運命に任せる外はない。けれども一つの事件そのものは人の見方によってどうにでもなるものである。見方によって赤となり青となる。が事件そのものは常に喜劇の形を取っている。其処には偶然があり意外があり無知があり滑稽がある。で運命に頭を下げ乍らも事物を大袈裟に考えてはいけない。物事をこき下《おろ》して正当な評価をすることは、最も強く生きる途である。
「だから、」と村上は続けた。「君のように絶えず真面目を求めすぎると大変な損をするよ。少しは遊びをしなくてはね。」
「けれど君、」と松井は反駁した。「人事の上に超然として遊びが出来るためには自分に大なる力を持っていなくちゃならない。そうでないとずるずる引きずり込まれてしまう恐れがあるんだからね。でそういう力は何処から来るんだ? 僕は凡てを真面目に考える処からその力が湧くんだと思っている。そして真面目を徹底した処に本当の遊びがあると思っている。」
「それは君の所謂神の域に達したものなんだろう。けれど君そうやたらに神様になれるもんかね。そう理想と現実とをごちゃごちゃにしちゃあ苦しくってやりきれない。そりゃあ僕だって神にはなりたいやね。」
「とんだ神だね。」
「なにこれで案外君より上等の神になれるかも知れないよ。」
一寸言葉がと切れると、二人の心の底にある寂寥の感が湧いた。それは空腹の感じと似寄った感じだった。それきり二人共黙り込んでしまった。
すっかり戸が閉されてしまった通りには、がらんとした静けさがあった。稀に通り過ぎる人は足を早めた。そして雨あがりの水溜りや泥濘の上に、赤い火がきらきらと映っていた。
二
松井と村上とは相変らず球突場に通った。
夜に電燈がともるとすぐに、広い室の青い瓦斯の光りが思い出せた。すうっと羅紗の上を滑ってゆく赤と白と四つの球が眼にちらついて来た。すると遠いなつかしい音をきくように、こーんこつ[#「こーんこつ」に傍点]という球音が響いてくる。そしてゲームを取るおたか[#「たか」に傍点]の透き通った声までが聞えるように思えた。
松井と村上とは孰れからということなしに誘い合って球突場に行った。
それは一種の惰性であった。然し惰性ならぬものが次第に彼等二人のまわりに、そして林やおたか[#「たか」に傍点]のまわりに絡まっていった。松井、村上、それと林とは、いつもよくおたか[#「たか」に傍点]の側に夜更しの競争をした。そのことが松井を苛ら苛らさした、村上を微笑ました、そして一層林を沈黙にさした。
おたか[#「たか」に傍点]は時々二日三日と続けて家に居ないことがあった。その時は大抵林も姿を見せなかった。
妙な暗示が松井と村上とに伝わった。
「留守見舞は余り気がきかなさすぎるね。」
球突場を出ながら村上はこんなことを云った。
「僕はあの林が大嫌いだ。いやな
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング