村上とはよく遅くまで球突場を去らないことがあった。林もよく遅くまで遊んでいった。度々彼等は一緒になることがあった。そういう時は、屹度一方が帰るまで片方も立ち上らなかった。何ということなしに自然にそうなったのである。
俺は何も林の向うを張るんじゃない、と松井は思った。第一おたか[#「たか」に傍点]に対しても何の感情も持っていない。よしまた俺のうちに自分で自覚していない感情があるにしても、林なんかと競争をするものか。その妙にだだっ広い額、鼻筋の低い鼻、薄い髪の毛、ゆるんだ唇、もうそれで沢山だ!
彼はつと立ち上って、窓に凭れて外を眺めた。すぐ前に大きい檜葉《ひば》があって、その向うの右手の隅に八手《やつで》があった。その葉には雨の露がまだ一杯たまっていた。でも空は綺麗に晴れて星がきらきらと輝いていた。星の光を見ていると、雨に清められた夜の空気が胸に染み込んでくるような気がした。
暫くするとおい! と肩を叩かれたのでふり返ると、村上が立っていた。
「どうしたい。」
「散々まかされちゃった。」
女はまだ球を突いていたが、おしまいに失礼と云いながら突き切ってしまった。
「さあも一度いらっしゃいよ。」
「もう止しだ。」
「負け腹を立てるなんか柄でもないわ。ねえ松井さん。」と女は睨むような眼付をした。
「おいおい、」と村上は口を入れた。「勝った時にはも少し口を慎むものだよ。」
「その代りに何か奢りなさいよ。」
「そうだねえ……何でも御望み次第。」
「懐の御都合次第。」と女は村上の調子を真似ながら笑った。
「おそば……はどうだ。」
「それから?」
「何がさ?」
「それから麦酒《ビール》というんでしょう。」
「いや今日は飲まない。それともおたか[#「たか」に傍点]さんが半分|助《す》けてくれるというんなら、そしてついでにお金の方もね。」
「それこそ占いだわ。」
それをきいて松井も思わず微笑んだ。
「何が占いだ。」
「例の君の占いさ。」と松井が云った。
「ああこれは驚いた。そういつまでも覚えられていた日にはたまらないね。」
けれども村上の顔にはそういう言葉の下からちらと淋しい影がさした。
村上の占いというのはそう古い話ではない。丁度七月のはじめ梅雨も霽れようという頃であった。彼は少し入用の金が出来た。誰にも何とも云わなかったので分らないが、前後の事情から推すと、前から大分関係があった或る女とそれとなく別れるため二三日の旅をするつもりの金だろうと松井は思った。兎に角彼は少し纒まった金が入用になって、故郷広島のさる叔父に内々無心をしたのであった。暫く何の返事もなかった。彼は落ち付かない日を送った。ある晩ぶらぶら散歩していると薄暗い通りに占いの看板を見出した。変な気になって彼は遂にその晩、怪しい老人から吉の占いを得て帰った。翌朝叔父から金が届いたとのことである。
「占いをなすったことがあるんですか。」と林は初めて口を開いた。
「いや、つまらない事なんです。」と村上は答えた。
「あれで中々面白いものでしょうね。」
「さあどうですか。案外つまらないものかも知れませんよ。」
「そうですかねえ。」
それっきり一寸皆黙ってしまった。
「おそばももう今晩はお流れだし、」とおたか[#「たか」に傍点]が沈黙を破った。「松井さん、では一ゲームいらっしゃい。」
「もう今日は黙目だよ[#「黙目だよ」はママ]。」
「意気地なしだわねえ。林さん一つお願いしましょうか。」
林はただ微笑んでみせた。
おたか[#「たか」に傍点]はもう突棒《キュー》を手にして、媚ある眼でじっと見やった。で林はそのまま立ち上った。
林は平素よりいくらか当りが悪いようだった。
「大変優勢だね。」と村上はおたか[#「たか」に傍点]に声をかけた。
「ええ今晩は馬鹿にいいのよ。」こう云って彼女は怪しい笑みを洩らした。
黙ってゲームを見ている松井の心にある佗びしい思いが湧いた。何ということもなく只捉え難い空虚の感である。瓦斯の光りが妙に淋しい。球の色艶が妙に儚い。
彼は遠い物音をでもきくような気で球の音をきいていた。暫くして漸く心をきめた。
「おいもう帰ろうよ。」
「え!」と村上は松井の顔を覗き込んだ。
「僕は先に失敬しよう。」と松井は云い直した。
「いや僕ももう帰るよ。」
「おやもうお帰り?」おたか[#「たか」に傍点]が親しい調子で云った。「今日は大変お早いんですね。」
松井はじろりと林を見て、それからつと外に出た。村上もすぐ後に続いた。
大地は心地よく湿っていた。空は綺麗に晴れて星が輝いていた。清い新鮮《フレッシュ》な気が夜を罩めて、街路はひっそりと静まり返っている。夜更けの瓦斯の光りには、何処にも宵の雑沓の思い出がなかった。
「いい晩だねえ。」
「ああ。」
暫く無言で歩いていた
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