奴だ。」
「あれで中々うまいことをやってるんだね。」
「どうして?」
「どうしてってそりゃあ君……。」と云いながら村上は笑ってしまった。
 それは或る綺麗に晴れた晩だった。袷の肌には外の空気が少し冷やかすぎる位であった。松井は村上に誘われて、ぶらりぶらりと当もなく散歩に出かけた。
 彼等は明るい電車通りを選《よ》って歩いた。村上は心に何かありそうな顔色をしていた。それが松井にも伝った。孰れも球を突こうとも云い出さないでただ歩いた。然し歩いているうちに歩くことが無意味に馬鹿々々しく思えて来た。
「麦酒《ビール》でも飲もうか。」と村上が云った。
「よかろう。」
 二人はさる西洋料理屋の二階に上った。そしてすぐ右手の狭い室にはいった。室には他に客はなかった。食卓の上に只一つ蘇鉄の鉢がのっていて、それが向うの柱鏡に映っていた。
 二人は料理を食って麦酒を飲んだ。それから洋酒も一二杯口にした。そして何だか互に視線を避けるような心地で居た。
「ちっとも飲まないね。」
「なにこれからだよ。」と云って村上は洋盃をとり上げた。
「酔って球を突いたら面白いだろうね。」
「そう今晩また出かけようかね。」
「ああいってみようよ。」
「実は……、」と云いかけて村上は相手の顔を覗き込むようにした。「僕はちとあの家には不愉快なことがあるんだ。」
「どうしたんだ。」
「なに昨夜ね、一人で出かけちゃったんだ。十一時頃までついたがね。おしまいには僕一人になってしまったんだ。林もやって来ないしね。するとおたか[#「たか」に傍点]がね、お対手がなくて淋しいでしょうと云って、変に皮肉な笑い方をしたんだ。……一体君はおたか[#「たか」に傍点]と林とをどう思ってる?」
「どうって何が?」と松井はどう返事をしていいか迷った。
「先からあやしいんだ。君だってそれ位のことは分ってるだろう。あのお上がいいようにしたんだね。……そこで、あそうそう、おたか[#「たか」に傍点]が僕にお淋しいでしょうと云ったから、僕も少しふざけて林のことでおたか[#「たか」に傍点]を散々ひやかしてやったのさ。」
「へえ!」
「なに奴《やっこ》さん洒々《しゃあしゃあ》たるもんだ。所がね、側に居たお上が少し意地悪く出て来たんだ。村上さんも嫉妬やくほど御不自由でもないでしょうへへへと笑いやがるんだ。そしておたか[#「たか」に傍点]と見合っては皮肉な笑を洩らすんだ。随分癪に障っちゃったよ。」
「それでやり込められたわけだね。」
「なにあべこべにやり込めてはやったんだがね。君がいう通り随分いやな婆だよ。」
「一体林とおたか[#「たか」に傍点]のことは確かなのかい。」と松井は尋ねた。
「多分間違はないよ。勿論おたか[#「たか」に傍点]の方から云やあ一時の撮み喰いにすぎないんだろうがね。」
 松井は黙って洋盃《コップ》を上げた。と村上も同時にぐっと一杯やった。
「それにね、」と村上は声を低くした。「林と云うなあ支那人じゃないかと思うんだがね。いやに黙りくさってにこにこばかりしていやがってね。りん[#「りん」に傍点]と読めば君よく支那にある名前じゃないか。どうもあの顔付が何だか変だよ。」
「そう云やあ、あの顔の工合なんかどうも本物らしいね。」
 もう二人共可なり酔っていた。瞳を据えて互の眼を見入りながら、彼等は何かある不吉なものを感じあった。それは言葉には現せないただ漠然としたものだったが、それが次第に色濃くなってゆくのを二人共意識していた。
「馬鹿な話だ。」
「馬鹿な話だ。」
 こう殆んど同時に二人は云った。
「ほんとに林は支那人かね。」と暫くして松井は云った。
「なに事実はそうじゃないだろう。只そう思った方が面白いやね。」
「だんだん複雑してくるね。」
「何が?」
「何がって……おたか[#「たか」に傍点]の周囲がさ。」
「僕達も当然そのうちにはいるんだろうね。」と云って村上は笑った、「その方が面白いじゃないか。」
「どうだか。」
「だって君はおたか[#「たか」に傍点]が好きだろう。好きだと云い給えな。」
「嫌いじゃないよ。……君はどうだ。」
「僕だって嫌いじゃないさ。が好きでもないね。」
 二人はまた酒をのんだ。
「ねえ君、」と云って村上はすぐ松井の顔の前に自分の顔を持って来た。「おたか[#「たか」に傍点]が僕達二人のものだったら、君は僕と決闘でもやるだろうかね。」
 松井は黙って村上の眼を見返した。
 二人は露わに互の眼を見合った。一瞬間其処には何の愧じらいもなかった。互に裸体のまま相手の凝視の前に立っていた。
 松井ははっとした。それが何かということがちらと心に閃めいたのである。彼は拳を固めた。そしてつと顔を引いたと同時に村上も顔をひいた。
「え!」と喫驚したような声を松井は出した。
「さあ飲もうよ。」と村上が
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