目です。」と林は平気でいた。
 松井はすぐに帰る仕度をした。
「まだお宜しいじゃありませんか。」
「いや少し急ぐから。」
 松井が表に出ようとした時、おたか[#「たか」に傍点]が其処に駈けて来た。
「またあしたどうぞ。」と囁くように云って彼女はじっと松井の眼の中を覗いた。
 外にはまだ雨が降っていた。軒影や軒燈の光りがしっとりと濡れていた。松井は急に肌寒い思いをしながら、傘の下に身を小さくして歩いた。
 彼の心は興奮したまま佗びしい色に包まれた。凡てのことが何かの凶兆を示すように思えて来た。そして彼は泥濘の上に映った足下の灯を見て歩きながら、おたか[#「たか」に傍点]の顔を思い浮べた。今日初めて気が附いたあの肉感的な頬の魅力が眼の前にちらついた。然しそれは、苛ら苛らした興奮や、一種の敵意や、漠然とした佗びしさの被《ベール》を通して見た情慾であった。
 彼は顔の筋肉を引きしめながら、眼を上げて雨中の街路をすかし見た。

     四

 松井の下宿は静かな裏通りにあった。彼の室のすぐ前には可なりの庭があった。彼はよく机に凭れながら更けてゆく秋を眺めた。樹の梢が高く空に聳えていた。夜には星が淋しく美しく輝いた。
 彼はやはりよく球突に通った。多くは村上と二人で、稀には自分一人で。然しおたか[#「たか」に傍点]の周囲にはそれきり何の変りもなかった。ずるずると引きずられてゆくような現状が続いた。
 けれどある日おたか[#「たか」に傍点]は球突場に姿を見せなかった。そしてそのまま五日過ぎ十日過ぎるようになった。と前後して林の姿も見えなくなってしまった。
 松井と村上とは余りおたか[#「たか」に傍点]のことについて話し合わなかった。彼等はその話を避けるようになった。ある気まずい感情があって、それがお互に心の底を隠すようにさした。
 ある晩、松井が自分の室の障子をあけて、ぼんやり空の星と庭の木立とを見ていた時、そしてとりとめもなくおたか[#「たか」に傍点]とその周囲とのことを腹立たしく思い起していた時、村上が急いでやって来た。
「おいおたか[#「たか」に傍点]に逢ったよ。」と村上は眼を丸くしていた。彼が友の家を訪ねて、帰りにぶらりぶらり広小路を歩いて来ると、向うからおたか[#「たか」に傍点]がやって来るのに出逢った。お召の着物と羽織を着てキルク裏の草履をはいていた。村上に気がつい
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