球体派
豊島与志雄著
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)面《めん》で
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私は友人の画家と一緒に夜の街路を歩いていた。二人とも可なり酔っていた。どういう話の続きか覚えていないが、彼はしきりに球体派という言葉をくり返していた。
「日本画と西洋画との本質的なちがいは、日本画は線で物を把握し、西洋画は面《めん》で物を把握する、というところにある。ところがこの面というものが甚だ厄介で、ともすると平面になってしまう。平面の集まりになったんじゃあ、絵が死んでしまうし、物のヴォリュームは出てこない。面其のものを直接に取扱う彫刻にしたって、見給え、大抵は死んでるのが多いじゃないか。面を生かす……ヴォリュームの力で底からまるくふくれ上ってくる……そういうところに僕の努力や苦心があるんだ。立体派をもう一つ先の球体派というところまでつきぬけるんだ。」
「球体派は賛成だ。」と私は叫んだ。「なぜかなら……。」
私達が歩いている街路は、大震災後四五年たって――余りに遅すぎるが――漸く復興されてる最中だった。その上道路も修繕中だった。鉄骨、木片、コンクリート、レール、舗石、其他大都会のあらゆる素材が、乱雑に堆積していた。そしてその中に、ところどころに、出来上りつつある建物の断片が、曲線を見せてる横顔が、思いがけなく覗き出していた。それは私に一種の喜びを与えた。煩雑な幾何学的図形の中に、生々とした球面をふと見出した時の喜び――ピカソの画面の中に肉体的ヴォリュームを見出した時の喜び……。それにまた、通行人等の身体が、夜の街路の上に如何にも弾力性を帯び、その眼が、街灯の光の中に如何にも生気に満ちていた。
「そうだ、これらの持つ美は、一種の球体的な美だ。」
「眼球の美だ。」
人間の眼球は、と画家は云うのだった、どんなものでも測り知られぬ美を持っている。どんな年齢の眼も、どんな生活の眼も、みな美しい。養老院の中庭に日向ぼっこしている老人の眼も、酒にただれた売笑婦の眼も、それぞれの美しさを持っている。その美しさは、真正面から見たのではよく分らないかも知れないが、横から、斜め横から見れば、誰にでも、「素人」にでも分る。満員の電車に鮨詰めになっている雑多な人々の眼、それを斜め横から、眼瞼の下に円くふくらんでいる、そのふくらみが分るほどの角度で見れば、どれもみな素晴らしく美
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