しい。透明な液体につつまれた、白と黒との生きた球体だ。
「恋人の眼をのみ美しいと云う勿れ。」
だが、眼球をのみ美しいと云う勿れ。私はその時、撞球の象牙の球《たま》を頭の中に眺めていた。きれいに拭きこまれた赤と白との象牙の球――あらゆる色合の光と物象とを映して、青羅紗の上をなめらかに滑りゆく、赤と白との象牙の球……。
いや、眼球や象牙の球ばかりではない。凡て球形のものには、円満具足の美があって、長い観賞に堪える。球形を見て喜びと和ぎとを感じないものは、邪悪な心である。球形は完成の姿である。寺院の円屋根には一種神秘な意義が宿されている。下手な音楽家の奏でる音は、尖っていたり平べったかったりするが、上手な音楽家の指先が立てる音は、或る円みを持っている。盤上に玉を転がす……というのは、古くして新らしい譬えだ。ボロ自動車の音は、牛の糞みたいにべっとりと舗石の上に残されていくが、上等の自動車の音は、円く軽快に街路を滑って消えていく……。
そういうことを饒舌っているうちに、私達は四辻に出た。電車、自動車、自転車、通行人……各自の方向へ進んでる中に、私達は自分の方向を定めかねて、歩道の端にぼんやり立止った。そしてそこに、街灯の輝かしい上方、高く高く、軒並に切取られた夜の空が、無数の星をちりばめてるのを眺めた。
「僕はアリストテレスの説に賛成だ。」と私は思わず叫んだ。
「万物の最も完全な形は円形である。故に、円運動は唯一の安全な自然な運動である。故に、星の運行もまた円運動でなければならない。」
二千何百年か前に云った哲人の言葉が、星の軌道が円か楕円かを論外にして、私達の胸にぴたりときたばかりでなく、星そのものが球形であると同様に、街路に動いてる凡てのものが、不規則な球形をとって酔眼に映った。
「いよいよ最後の時にも……。」
それは、浅間山の噴火口に飛びこんだ瞬間の姿だった。
浅間登山は、夜のうちに麓をたって、まだ薄暗い頃に頂上に着き、闇の中に赤熱してる噴火口を見、次に日の出を待つ、それが最もよい方法である。私もこの夏そうした。まだ日出前一時間頃、山上には闇とも微明ともつかない朧ろなものが漂っていて、煙の渦巻いている噴火口の底だけが金色に燃え立ち、更にその地下深くごうごうと鳴り響いている。噴火口の縁には火焔の照り返しで、僅かな人影があちこちに見分けられる……。その人影の一つ
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