く意志なきもののように、彼に身を任せたという感じだけが青木に残った。青木の方でも恐らく同様だったろう。
 翌朝はひどく気まずかった。飯も食わずに喜久家を飛び出して、すぐに別れた。別れ際に青木は言った。
「昨晩のこと、忘れることにしましょう。石村さんへの面当てだと思えば、それでいいでしょう。」
「ええ、いいわ。」と巻子は答えた。
 愛情でも情慾でもなかった。ただ泥酔したためだった。二人は会社でも、互に親しい素振は見せず、却って白々しい態度をした。だが、さすがに青木は、巻子のことが気になって、落着かない気持ちだった。引緊った細そりした顔立ちに、近眼鏡の奥から眼を光らして、何喰わぬ様子をしてる彼女のうちに、独身の中年女の図々しさを見る気がした。
 それから二週間ばかりたった頃、青木は巻子と連れ立って帰りかける羽目になった。街路に出ると、今晩も飲みにいらっしゃるの、と巻子が聞いた。頷くと、わたしもついて行っていいかしら、と言った。何か話があるのかも知れないと思って、青木は彼女を連れて知り合いの居酒屋へ行った。別に話もなかったが、酒が廻って来ると、巻子は頬笑んで囁いた。
「石村さんへの面当て、あ
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