、貯水池、水門など、各種の難工事が克服され、このために移動された土壌の量は、高さ一メートル幅一メートルの土堤に直してみると、長さ二十万キロ、地球赤道を五周するほどだという。これだけの大工事が、中国においては、人民のために人民の手で行われているのだ。日本にあっても、この貧窮のさなかだから、先ず何を措いても国利民福のことを考えるべきではないか……。そういうことを青木は饒舌った。
この青木の話は、宴果てようとする頃に持出されたもので、石村の説を反駁するという形にはならず、単に話題を転換するものという風に受取られた。二、三の者が彼の相手になり、今西巻子が最も多く口を利いた。青木は巻子の方に向き直って、ますます熱心に饒舌り立て、その説はなんだか彼女に迎合的だった。二人は意気投合してるようにも見え、或は互に酒の肴にしてるようにも見えた。彼女も相当に酒を飲んで、したたか酔っていた。そして二人で饒舌り合ってるうちに、石村はいつしか席を立ち、他の者も相次いで姿を消し、二人だけ泥酔して、喜久家に泊りこんでしまったのである。その前後のこと、青木はよく記憶してはいなかった。ただ、巻子がひどく消極的に、或は全く意志なきもののように、彼に身を任せたという感じだけが青木に残った。青木の方でも恐らく同様だったろう。
翌朝はひどく気まずかった。飯も食わずに喜久家を飛び出して、すぐに別れた。別れ際に青木は言った。
「昨晩のこと、忘れることにしましょう。石村さんへの面当てだと思えば、それでいいでしょう。」
「ええ、いいわ。」と巻子は答えた。
愛情でも情慾でもなかった。ただ泥酔したためだった。二人は会社でも、互に親しい素振は見せず、却って白々しい態度をした。だが、さすがに青木は、巻子のことが気になって、落着かない気持ちだった。引緊った細そりした顔立ちに、近眼鏡の奥から眼を光らして、何喰わぬ様子をしてる彼女のうちに、独身の中年女の図々しさを見る気がした。
それから二週間ばかりたった頃、青木は巻子と連れ立って帰りかける羽目になった。街路に出ると、今晩も飲みにいらっしゃるの、と巻子が聞いた。頷くと、わたしもついて行っていいかしら、と言った。何か話があるのかも知れないと思って、青木は彼女を連れて知り合いの居酒屋へ行った。別に話もなかったが、酒が廻って来ると、巻子は頬笑んで囁いた。
「石村さんへの面当て、あれっきりなの。」
何を言うか、と青木は思ったが、その憤りのため、却って後へは引けなくなった。
二人は喜久家へ行って、また泥酔し、泊りこんでしまった。前の時と同様、味気ない一夜だった。翌朝、巻子は言った。
「こういう保養も、たまにはいいわね。」
その冷淡な言葉に、青木は見事に仇を打たれた気がした。勝気で不感性めいた彼女に深入りしてると、これはとんでもないことになりそうだ、と警戒の念が起った。其後、青木は彼女を避けるようにした。
それだけの交渉だったのである。然し、石村は執拗だった。
「僕は、君が彼女を丸めこんで、何か情報を得ようとしてるのだと思ったが、違うかね。」
青木はただ唖然とするばかりだった。
石村は酔眼を据えて、じっと青木を見つめた。嘗て上海にいた頃、石村はよく相手の顔を凝視した。ぴたりと吸いつくようなその眼光には、人を威圧するものがあった。今では、丸刈にしていた頭髪を長めに伸ばし、白毛もだいぶ交っており、頬の肉は少し落ちていたが、青木にとっては、あの頃の眼光を久しぶりに見出した気がした。
青木は眼を外らして、ウイスキーをなめながら、口籠った。
「私には、何のことだか[#「何のことだか」は底本では「何のことだが」]、よく分らないんですが……。」
「なに、分らない。」
だいぶ間が途切れた。
「いったい君は、今西を、何だと思ってるのかね。」
「それは、どういう意味ですか。」
「彼女の人物のことさ。」
「ここの社員でしょう。」
「社員は社員だが……。」
少し間を置いて、石村は打っつけるように言い出した。
「まだ確かな証拠はないが、僕の眼に狂いがなければ、あれは日共の党員だ。少くとも党の同調者だ。そしてここで、何等かの情報を得ようとしているのだ。この頃本社では、諸会社の内情調査を主な仕事としてるものだから、それに関連した情報獲得の便宜もあるし、それから猶、警察予備隊だの、保安隊だの、僕の個人的な関係方面のことについても、知りたいニュースがあろうじゃないか。然し、彼女なんかにそう易々と尻尾は掴ませない。その代り、彼女の、いや日共の、尻尾を掴みたいものだ。君がその仕事をやってくれてるものだと、僕は思っていた。まだやっていないのなら、今からでも遅くはない、やってみないか。下らなく思われるような言葉尻だけでも充分だ。君と彼女の間柄なら、わけはないだろう。」
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